獅子舞の分化と多様性  
(2009/09/21 初出)

獅子舞の分化と多様性

 同系統の獅子舞同士でも長い間に少しずつ違いを生じ、分化して行くことは大丹波・高水山・下名栗の獅子舞を見ても明らかである。三匹獅子舞に限らずたいていの郷土芸能でも同様なことが起こっている。このような分化・多様化の事実をどのようにとらえ、どのように理解したらよいのだろうか。現状での個人的な理解を次に記したい。

 私たちの生きている世界においては、たいていのものは、「時間の経過とともにしだいに分化し、多様性を増していく」ように思われる。
 例えば、地球上の数多の生物種は、遠い太古の根源的な生物が様々に進化し、分化して現在見られるようなたくさんの種になったと考えられている。私たちが使っている言語なども同様で、全人類の共通祖語と考えられるものが人々の移動・拡散にともなう地理的隔離等の要因でしだいに分化して行ったものであろう。
 ジャンルや規模のまったく異なる三匹獅子舞についても、恐らく似たような経過をたどり、現在見られるような多様な獅子舞が生じてきたのであろうと考える。
そういう意味では生物の系統樹や言語の近縁関係を示す図のようなものを三匹獅子舞でも将来は作成することができるであろう。

獅子舞の分化

地理的隔離による分化・多様化

 生物種では地理的な隔離によって種が分化していくことが知られている。言語でも同様で、地理的に離れていたり隔離されていたりすると言葉が違ってきて、やがて方言を生むようになる。
 三匹獅子舞でも地理的な要因により差異を生んでいくと思われ、その差異は地理的距離が大きいほど顕著になるであろうと思われる。
 ここで、直接の伝受関係があるといわれる2系統の獅子舞を比較してみよう。一つは大丹波・上成木(高水山)・下名栗の系統であり、もう一つは沢井・丹波山村の系統である。
 大丹波・上成木(高水山)・下名栗の系統では、このWEBで書いてきたように、確かに獅子舞に差異がある。しかし、その差異はもう一つの沢井・丹波山村系統の獅子舞とくらべ極端に大きいものではない。それは、この3カ所は峠道を通らなければならないものの比較的楽に行き来できる範囲であり、昔から交流が盛んであったからであろう。私自身、子どもの頃は下名栗のお祭り(獅子舞)に毎年のように出かけていたし、昔の名栗の子どもたちも高水山のお祭りによく来ていたそうである。(「名栗の民俗」上巻より)

(※注) 今後訂正の可能性あり 一方、青梅市沢井の獅子舞と山梨県丹波山村の獅子舞では、伝授関係があるといわれるものの芸態の隔たりが非常に大きく、現在では同系統とは認識されないほどであると聞く。それは恐らく、東京都青梅市沢井と山梨県北都留群丹波山村との距離がかなりあり、健脚であったと思われる当時の人々でも簡単に行き来できる距離ではなかったからであろう。
(※注)の補足説明 2012/12/10
 今まで丹波山村の獅子舞を見たことがなかったので、通説通り「山梨県丹波山村の獅子舞は青梅市沢井の獅子舞と伝受関係があった」と信じてきた。しかし、先日、某Webサイトで「竿掛かり」の一場面を映像で見てから、この考えに疑念が生じてきた。現在は、「丹波山村の獅子舞は沢井系統の獅子舞ではなく、奥多摩方面に広く分布している小留浦系統の獅子舞なのではないか」という気がしてきている。
 私がたまたま見た映像はほんの数分間で、十分な検証もしようがないが、「丹波山村の獅子舞は、芸態はもちろんのこと笛のメロディーにも小留浦系統に近いものが感じられた」。いずれ実際に双方の獅子舞をじっくり拝見して、私なりの結論を出したいと思っている。
 丹波山村の獅子には腹にくくり付けられるべき太鼓が無い。しかし、獅子がバチを持ち太鼓を打つ仕草を残しているということは、長い年月のどの時代かに太鼓が失われてしまったものと推測する。獅子舞が盛況に行われている時代に太鼓が失われるはずはないので、丹波山村の獅子舞にもかつて大きな衰退期か断絶期があったのではないかと考える。そして、「後の時代に獅子舞を復興するに当たり、近隣の獅子舞を移入した」というのが個人的な考えである。
 しかし、もっと可能性がある考えは、沢井側から丹波山村側への伝授は「日本獅子舞来由」という巻物のみ(※補足1)であり、もともと「獅子舞自体の伝授は無かった」と考えた方が理屈にあっている。それは、高水山と大丹波の伝授と比較してみて分かったことである。
 高水山の獅子舞は、明和5年(1768年)6月〜7月にかけて大丹波側の10名の指導者(うち4名は獅子、ささら、歌、笛の各師匠)が当地に入村し、大照院にて21名の者(恐らく若者)に獅子舞を伝授している。伝授伝習期間がどのくらいかかったかを示した文書は残されていないが、少なくとも1ヶ月は要したであろうと考えている。また、大丹波から上成木までの道のりはおよそ6kmで、やや難所のある峠道ではあるが、健脚だったと想像される昔の人にとっては難なく往復して仕事のできる範囲だったと思われる。
 このことを基に考えると、沢井・丹波山村の間で伝習が行われた可能性はきわめて低いと考えざるをえない。青梅市沢井と山梨県丹波山村では道が整備された現在でも36km程度の距離があり、車のなかった時代では片道だけでも優に一日かかってしまう道のりである。日帰りで獅子舞を伝習する時間などはまったくとれなかったはずである。したがって、仮に伝習が行われたとしても泊まり込みにならざるえず、仕事をもった一般の村人が長期間にわたってできるものではなかったと思われる。
 それ以前の前提条件として、互いの村の間での友好関係や、村人の経済的な支えがなければ村をあげての伝授伝習は難しいであろう。近くにある村同士の日頃の交流や長い間に培われてきた結びつきや信頼関係がなければ、多くの人や日数、そして経済的負担を要する獅子舞自体の伝授は簡単にできなかったと考える。(※補足2)
したがって、どの系統の獅子舞であっても獅子舞自体の伝授はそう離れていない近隣の村々の間で行われたものと推測している。ただし、プロの芸能者から直接教えを受ける場合はこの限りではない。日本獅子舞之由来(日本獅子舞来由)という秘伝書を最初に授けられた地の獅子舞は、プロの芸能者一門(たとえば山崎角太夫 一門)を招いて伝授を受けたということは事実であろう。
 それ故に、沢井に残されている古文書にはいくつかの脚色があるのではないかと想像する。(2012/12/10)
(※補足1)日本獅子舞来由の伝授についても通説にしたがって記しただけであり、これについても検証しなければ伝授があったと断言することはできないと考えている。
(※補足2)大丹波系統と沢井系統の獅子舞は内容から判断して伝授伝習に日数のかかる獅子舞だったと思われる。

今後、再度書き換えの可能性あり (2012/12/17)
「沢井から丹波山村への最初の伝授」については懐疑的であるが、さらに検討する必要あり。 (2012/12/17)

時間的経過による分化・多様化

 上記は獅子舞の分化を地理的な側面、いわば平面的な見方でとらえたものであるが、当然違った方向からも見る必要があり、これは時間的な側面を尺度とするのがもっとも妥当であると思う。この時間的な側面と地理的な側面を縦糸・横糸として獅子舞の分化・多様化を考えるのがよいのではないだろうか。
 時間的な尺度で見た場合の変化には、短期間で大きく変わる場合と、目に見えないほどのわずかな変化の積み重ねによって変わる場合の2種の変化が考えられる。
 短期間で変化する場合は、生物進化の例を見るまでもなく、それを取り巻く環境が大きく変化した場合である。
 大丹波の獅子舞は上成木(高水山)に伝えられ、そしてそこから下名栗に伝授されている。それぞれの地で芸態が少しずつ違っているが、その大きな変化は違う地に伝授された時に起こったような気がしている。それは、地域が違えばそれを取り巻く多くの環境条件が違うからである。人々の気質も違えば獅子舞を行う庭場などの条件も自ずから違っており、条件に合わせていくつかの違いを生んだと思われる。また、社会のあり方が大きく変わった時代の変革期にも獅子舞が大きく変わらざるを得なかったであろう。
 一方、普段気がつかないような非常に小さな変化の積み重ねでも、それが長期間にわたった場合には大きな差となって行く。数百年にわたった各地域の歴代の獅子舞役者や師匠(指導者)は、自分なりの視点や美意識でそれぞれ獅子舞を少しずつ変えてきたと思われる。そのような、わずかな変化の蓄積によって次第に獅子舞が変化し分化していったと考えられる。
 獅子舞の変化の方向性は最初から決まっていたわけではなく、時代の影響やたまたま現れた指導者の資質や個性に影響されたものであろう。いわば偶然にまかされた面があり、もし、時代をさかのぼって同条件で再度伝授するといった壮大な実験が仮にできたとしても、数百年後に現在と同じ形になるという再現性はあり得ないと思われる。

別の芸能からの影響

 不思議なことに、まったく関係の無いものから影響を受けて、新しい側面をもつこともある。唐突な話であるが、生物もウィルスからそのDNAを生殖細胞に取り込み進化してきたとの説もある。より身近な例では、言語の変化もその例であろう。私たちが使っている日本語も外国から多くの単語を移入し、言い回しも影響を受けて徐々に変化しているものと思われる。
 三匹獅子舞についても、起源の異なる別系統の芸能から影響を受けた可能性がある。特にもう一つの獅子舞(伎楽系の獅子舞=一般的な獅子舞)からは、獅子頭や衣装はもちろん多くの影響を受けてきたであろうことは多くの人が認めている。
 西多摩地方の多くの獅子舞では最後に千秋楽の謡を行うが、これは能の「高砂」から取り入れたものと考えられる。千秋楽の謡は、この地方の獅子舞の創始期に他の芸能で行っていたことから取り入れられたものと考えている。
また、東久留米市南沢の獅子舞では、歌舞伎の「暫」の影響を受けたと思われる衣装・世流布が見られるとのことである。
 もっと系統の近い三匹獅子舞どうしの間でも、以前【獅子舞の変容】の「近隣との影響の及ぼしあい」で書いたように、互いに影響をおよぼしあった痕跡がいくつもうかがえる。

分化と多様性

 以上、獅子舞の分化と多様性を書いてきたが、自然界では多くのものが分化し多様性をもつことが自然な成り行きであると思える。そして、この多様性こそが自然や社会を豊かにしているとも思える。野の花々も場所により季節により実に多彩な花を咲かせている。そのどれもがそれぞれの価値を持ち大切な存在である。単一種ではつまらないし、環境の変化にも弱い。三匹獅子舞はもちろんすべての郷土芸能や地域の多様な文化は、そこに住む人々にとってはもちろんのこと、日本あるいは全世界的なレベルで考えても、失われてはいけない貴重な財産である。

   補足
 多くの事象が分化・多様化の方向に進むのは、もしかしたら人間の活動やそれによって生み出されるものでさえも、宇宙から素粒子・クォークまで貫く物理の大原則につながっているのかも知れない。例えば極微の世界でのエントロピーの概念と無関係ではないと考えられなくもない。歴代の獅子舞役者や指導者は意思をもってそれぞれ行動したと思われるが、大局的・統計的に見た場合にはそれぞれの動きはランダムなものとしてとらえることができ、それゆえにエントロピー増大則と同様に獅子舞の多様化・分散化を考えることができるかも知れない。「時間や空間の始まり」と「私たちの世界でおこる事象」を関連づけて考えている人も、中にはいるように思う。
 ただし、人間の世界でおこる事象に宇宙レベルの見方や極微の世界の概念を安易に持ち込むことには慎重にならなければいけないであろう。見ている世界のレベルがまったく違う上に、実際には人為的なものや人為的な力は自然の進む方向に大きな影響を持つからである。近年では、分化・多様化と逆行する事象がたくさん見られるようになっている。日本語では放送メディアの発達や国家としてあり方の面からも方言が少しずつ失われ、言語の統一化が進んでいるように見える。生物学的な意味での人についても、人々の交流が世界的なレベルでも盛んになり、地域による遺伝子的な差異が少しずつ縮む方向に向かっているように思える。


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