多摩のあゆみ 原稿  

多摩のあゆみ本 「たましん地域文化財団」から依頼され、季刊誌「多摩のあゆみ」163号(平成28年8月15日発行)に載せた原稿です。
 このサイトのダイジェスト版とも言うべきもので、特に高水山獅子舞の概要および下名栗への伝承とその後の獅子舞の変化について記載しました。

 下の補足説明は2021年9月20日〜10月1日に追記した部分であり、「多摩のあゆみ」には載っておりません。

高水山の古式獅子舞と下名栗への伝承

高水山の獅子舞について

 高水山(たかみずさん)の北側の麓に位置する青梅市成木7丁目(江戸時代においては武州多摩郡上成木大沢入村)【補足説明1】には、江戸時代中期の明和5年(1768年)から始まったといわれる三匹獅子舞が伝承されている。この獅子舞は、もともと4月8日の灌仏会(かんぶつえ)に行われていたものだったが、昭和40年代から4月の第2日曜日に変更になっている。高水山太刀懸
 演目は、御幣懸(おんべいがかり)、花懸(はながかり)、三拍子(さんびょうし)、竿懸(さおがかり)、女獅子隠(めじしがくし)、太刀懸(たちがかり)別名白刃(しらは)の6庭から構成されている。
 高水山の獅子舞は、戦時中も途切れることなく奉納され、昭和44年4月10日には NHKテレビ「ふるさとの歌祭り」に出演し(演目は白刃)、翌年の昭和45年6月3日にはNHKテレビ「芸能百選」(演目は三拍子)にも出演している。

獅子舞要員

 獅子舞に必要な要員は、昭和の資料によると、準備係40〜50名、獅子世話人6名、露払(先払)2名、役者(獅子舞の人)20名、ささら小娘10名、笛吹15名、唄うたい4〜5名と記されている。しかし、過疎化・少子化の進んだ現在ではもっと少ない人数で獅子舞を行っている。
 獅子舞はもともと若衆(若者組)によって担われてきたが、昭和30年代後半から数年間の準備期間を経て昭和39年1月に高水山獅子舞保存会が正式に発足し、これ以降は保存会が中心となって獅子舞を上演している。高水山の獅子舞は出世獅子と呼ばれ、獅子を狂う(舞う)役者は段階を追って技を習得し次のステージに上るようになっている。初心者はまず「花懸」を狂い(舞い)、その後「三拍子」、「竿懸」、「女獅子隠」、「太刀懸」と進み、最後に「御幣懸」と「太刀懸の太刀遣い」を担当して、晴れて現役を引退することになる。「御幣懸」の大太夫(黄金色の獅子)を狂う役者がその年の最高位の獅子舞役者であり、この役者は最後の庭の「太刀懸」にも太刀遣いとして登場する。全ての庭(演目)の獅子を演じきるのに20年かかり、昔はこの時点で獅子舞を引退することができた。しかし、人数が少なくなっている今日では、現役を引退しても獅子舞に加わっている。

庭(演目)の構成

 全ての庭(演目)は、共通して次のような部分から構成されている。
@渡り拍子(庭への入場)
A揃い(獅子とササラは所定の場所に着き、ササラは楽器を奏し始め、獅子も笛に合わせて太鼓を叩いて舞の準備をする)
B出始(デハ)(女獅子が向きを変え、ササラと獅子は笛に合わせて庭場を三往復する)
C本舞(庭の中心となる部分で、各庭の笛に合わせて獅子は演目の内容に応じた舞を行う)
D歌(本舞が終わった後、笛は休み、年長者が獅子舞歌を歌う)
E散らし(庭の最後を締めくくる舞であり、獅子は花笠を離れて観客の中まで入り込み自由に舞う。最後は揃いの時と同じ体系になり締めくくりの舞を行う)
F渡り拍子(舞が終わって退場する)
 これらはすべて笛によって進行し、笛の種類(曲)は18種ほどある。

各庭(各演目)の概要

高水山御幣懸

第1庭 御幣懸(おんべいがかり) 獅子舞奉納に際し最上級の役者が演じる重要な庭である。

 始めに獅子行列が不動堂を参拝する宮詣りが行われる。不動堂を三周した後、御幣懸の庭に入る。お宮詣での際に何か光る物体が落ちているのを女獅子(めじし…赤色の獅子)が見つけた。小太夫(こだゆう…黒色の雄獅子)がおそるおそる近寄ると、その本体が神聖な御幣であることが分かった。
小太夫(こだゆう…黒色の雄獅子)と大太夫(おおだゆう…黄金色の雄獅子)はどちらが祈願するかを巡って争うが大太夫が勝ち、代表して御幣に悪魔退散の祈願をするという庭である。

第2庭 花懸(はながかり) 花笠を花に見立てその美しさを愛でる舞であり、初心者が行う。

 若い三匹の獅子が花見に出かけ、牡丹の花の美しさに酔い、花を巡って優雅に舞い遊ぶという庭である。女獅子、小太夫、大太夫の順番に花笠の中に入り、最初に花を見、次に幹を見て、最後に根の様子を見ます。

第3庭 三拍子(さんびょうし) 国家安泰、五穀豊穣、氏子繁栄を祈る庭である。

 若い三匹の獅子たちが広い野原に出てきて元気に舞い遊ぶが、やがて遊び疲れて寄り添って寝入ってしまう。一眠りした獅子たちはまた元気に拍子を揃えて楽しく舞い遊ぶという庭である。演目の構成が他と異なり、三匹の獅子は拍子をそろえて同じ動作で狂います。ササラは他より難しく重要な役割を演じます。

第4庭 竿懸(さおがかり) 行く手を阻む障害を女獅子の誘導で乗り越える様を表す庭である。

 獅子たちが山を進むうち目の前に行方をさえぎる倒木が現れた。向こう側に行くのに困ったが、まず女獅子が様子を見て苦労の末これをくぐり抜けることができた。次に小太夫が挑戦するがなかなかうまく行かない。しかし、女獅子の誘導でこの大木をやっとくぐり抜けることができた。後に残された大太夫は怒り暴れこれを押し渡ろうとするが難渋する。しかし、またも女獅子の誘導で無事にこれをくぐり抜けることができ、最後は大太夫がこの大木を取り除き、三匹が仲良く舞い遊ぶという庭である。

第5庭 女獅子隠(めじしがくし)  男女の恋の葛藤を描く庭である。

 三匹の獅子たちを突然の濃霧が襲い、女獅子がはぐれてしまった。大太夫、小太夫がそれぞれ女獅子を探し回ったところ、若い小太夫が先に女獅子を見つけ出し連れ帰ってしまう。そうとは知らない大太夫は女獅子を探し回るが、ついに小太夫と仲良くいるところを突き止める。大太夫は小太夫の油断しているすきに女獅子を連れ出そうとするが、小太夫に未練を残す女獅子はなかなかなびかない。しかし、執拗に誘い出しをかけているうちに、ついに女獅子の心が大太夫になびくようになり、大太夫と女獅子は仲良く舞った後、庭場の反対側に自分たちの巣をかまえる。
高水山三拍子 大太夫は独りぼっちになった小太夫を「ざまあみろ」と脅しにいく。元気のなかった小太夫はだんだん元気を取り戻し、今度は大太夫たちの居所を突き止めようと探し回り始める。そして、今度は小太夫が女獅子を連れ出すことに成功する。その後、大太夫と小太夫は喧嘩を始めるが、喧嘩を見かねた女獅子が仲裁に入り、三匹の獅子たちは再び仲直りして楽しく舞うという庭である。

第6庭 太刀懸(たちがかり 別名は白刃) 真剣を使い悪魔退散を祈る舞である。

 大太夫、小太夫の前に刀を腰に差した二人の太刀遣いが現れた。太刀遣いは椿の花や手ぬぐいで囃した後、刀を抜き放ち獅子に見せびらかす。獅子は刀が欲しくてたまらなくなり、太刀使いの胸元に飛び込み、刀を翻している腕にしがみつく。そして、太刀使いは頭上に刀を翻しながら獅子と庭場を往復して舞う。
 執念深くつきまとう獅子に、太刀遣いはついに斬りかかる。このとき、獅子頭の頭上すれすれに刀を振り抜き、獅子頭の頭髪である羽の先が切り落とされて庭場に舞い落ちる。
 太刀遣いは、素早い獅子の動きに、今度は柄と刀の中ほどをもって再び獅子を追い返す。
 しかし、いくら追い返してもあきらめない獅子の執念に意気を感じ、太刀遣いはついに獅子に刀を預ける。獅子たちは刀を口にくわえ「自分の刀の方が良い」と互いに自慢して見せ合いながら大喜びで舞い狂うという庭である。
 なお、高水山では下名栗と比べて羽はあまりたくさん切り落とさず、3〜4cmくらいの長さで数本だけ切り落とすのが名人芸といわれている。また、この羽は縁起物として珍重されており、持っていると御利益があると言われている。

山や峠を越えて伝承された獅子舞

 高水山の獅子舞は、奥多摩町大丹波(旧武州多摩郡大丹波村)で行われていた獅子舞を江戸時代中期の明和5年(1768年)から習い始めて創始されたものである。【補足説明2】
 この獅子舞は27年後の寛政7年に免許皆伝となり、文化5年(1808年)頃にはここから埼玉県飯能市下名栗(旧武州秩父郡下名栗村)に伝えられている。大丹波と上成木と下名栗の地図
 大丹波(おおたば)、上成木(かみなりき)そして下名栗(しもなぐり)の3地域は、互いに山で隔てられていて、異なる谷川沿いにできた集落であり、それぞれが異なる街道と異なる行政区のもとにあるが、歩くことが当たり前であった時代には峠道を越えることは大きな障壁にならず、その交流は活発だったと思われる。今日では、人々の意識は川筋の下流の東京方面にのみ目が向きがちであるが、昔は生活する上でも横とのつながりが不可欠であり、隣の山里との交流は、生活の上でもなくてはならないものであったと想像される。
 上成木と奥多摩町大丹波の間、上成木と飯能市名栗地区の間には昔からの親戚関係が今でも大変多い。

長期間をかけた伝授伝習と免許皆伝

 獅子舞の伝播は文化の伝播でもあるが、その基盤は当時の人々の日頃の交流と信頼関係の上に成り立ったものであると思われる。とはいうものの、獅子舞に関しては、かなり厳しく伝授されたものであることが昔の文書から推定される。
 上成木に伝わる「仲間法度之事」【資料1】という古文書には、大丹波の師匠に稽古をつけてもらう際の約束事が記されており、ここには喧嘩口論や博奕、酒や遊興等の禁止までがこと細かく書かれている。そして、伝授側から一人前の獅子舞が確立したと認められ、免許皆伝の証である「日本獅子舞之由来」【資料2】という秘伝書と議定書を授けられるまでに、ずいぶん長い時間を要したこともうかがわれる。飯能市名栗地区で2001年8月に発行した「広報なぐりNO.304」には、「文化5年が習い始めた年に当たると推定され、免許皆伝の証の秘伝書が渡されたのが天保14年、修得に35年を要した」と書かれている。高水山の場合は、獅子舞の伝習開始が明和5年で由来書が伝授されたのが寛政7年である。その期間は27年間であり、それぞれの地で免許皆伝とされるまでには人の一世代にも相当する時間がかかっていることが分かる。
 高水山の祭礼は、昔は3日間にわたって行われ、伝授を完璧にするために高水山側と大丹波側で交互に獅子舞を披露しあったという伝承も残っている。この長く厳しかった伝授伝習の記憶が今なお引き継がれているものと思われ、伝授から250年たった現在でも、三カ所の代表者が互いの祭礼に訪問して、激励しあっている。

獅子舞の違い

 この3地域の獅子舞は大丹波を祖とする同一系統の三匹獅子舞であり、長期間を要してかなり厳しく伝授したと考えられ、演目やその構成も同一である。しかし、長い歴史の中でそれぞれに違いが出てきていることも明白な事実である。
 事細かに見ればその違いは膨大であり、その詳細を文章で紹介することは不可能であるが、いくつかにしぼって例をあげたい。
 大丹波、高水山、下名栗の3カ所の関係は、大丹波を親とするならば上成木は子にあたり下名栗は孫にあたる。獅子舞の差異は当然この伝承の順番に関係にするはずなので、今でも下名栗の獅子舞が高水山の獅子舞から伝わったことを示す証拠はいくつもある。 下名栗御幣懸
 例えば、獅子頭の色分けは高水山と下名栗が共通であり、両者はともに大太夫が黄金色、小太夫が黒色である。それに対し、大丹波の大太夫は黄金色ではなく黒色であり、中太夫(高水山の小太夫に相当する)は赤色である。水引幕(獅子頭の下につける布)の柄も、高水山が白抜きの鶴丸紋であり、下名栗は赤抜きの鶴丸紋である。それに対し大丹波の水引幕は牡丹の柄である。それ以外にも、獅子舞歌の並び方、歌を導入するときの笛の吹き方等、下名栗の獅子舞が高水山から伝わったことを示す証拠がたくさんある。
 しかし、免許皆伝以降、それぞれの獅子舞が、それぞれの地で独自に獅子舞を深化発展させたと考えられ、今日ではいろいろな違いが出てきている。
 例えば、高水山では太刀懸のときに獅子頭の頭髪である羽を刀で少し切り落とす演出が加えられている。これにより白刃の迫力が俄然増してきたといえ、高水山獅子舞の大きな見せ場になっている。下名栗の太刀懸(白刃)ではその演出をさらに発展させ、羽の切り方もより多量で華やかであり、毎年多くの観客を集めている。しかし、特に素晴らしいのは下名栗の「御幣懸」である。日本(東日本)に数ある三匹獅子舞の中で、下名栗の「御幣懸」以上に深い内容を持ち、見ごたえのある演目は他にないだろうと思われる。
 大丹波の獅子舞は三カ所でもっとも古典的であると言えるが、決して昔の獅子舞が凍結されて現在に伝わっているのではないことが読み取れる。ササラの擦り方などは複雑かつ高度であり、高水山でも下名栗でもこれほどのササラを見ることはできない。笛の方は太いものを使っているだけに音が心地よく、間合いの取り方も絶妙で大変素晴らしいものである。獅子の型も美しさと勇壮さを持っており、静から動へ、動から静への転換も見事で格調が高い。また、大丹波名物の最後の散らしの場面は、大丹波で独自に進化させたものであると考えられ、観客も含めて非常に盛り上がり、大丹波獅子舞の大きな見所となっている。
 このように各獅子舞はそれぞれの地で、独自に発展し進化をとげた様子がうかがわれる。それは、演ずる側と見る側の両方の欲求であり当然の方向性であると思われる。
 歌舞伎や能など、現在においても人を引きつける古典芸能は、昔から今に至るまで各時代の継承者が熱意を持って上演し、その芸を追求することによって成し遂げられたものであると思われる。
農山村の集落で行われてきた三匹獅子舞でも、各時代を担ってきた継承者それぞれの熱意や工夫の積み上げによって現在の形ができたものと思われる。これこそが、地域に根ざした生きた郷土芸能の本来のあり方であると考える。

違いが生じる理由

大丹波の散らし  現代では、昔から伝えられている伝統芸能が変化するという事実を、あまり良いこととは思わないであろう。しかし、古典芸能とか伝統芸能という概念のない時代では、人々は実際に目の前で上演する自分たちの芸能を、楽しみの面からもより見ごたえもあるものにしたい欲求があったはずである。長い間には名人という人も何人も現れたであろうし、また舞をより洗練させていく中で、よい所作を取り入れ、冗長な部分の贅肉を落としたりする方向で検討が加えられた可能性がある。江戸時代には想像以上の熱意を持って獅子舞が行われ、「より良いものを」「より見ごたえのあるものを」という面で工夫されてきた気がします。
 一方、普段気がつかないような非常に小さな変化の積み重ねでも、それが長期間にわたった場合には大きな差となって行く。数百年にわたった各地域の歴代の獅子舞役者や師匠は、自分なりの視点や美意識でそれぞれ獅子舞を少しずつ変えてきたと思われる。そのような、わずかな変化の蓄積によって次第に獅子舞が変化し分化していったと考えられる。しかし、一番大きな変化をとげるのは、立地条件の変化や外的条件の変化であろうと考える。獅子舞が行われる舞庭の大きさや形状だけ考えても、差異が生ずる原因となりうる。
例えば、下名栗の庭場は高水山の庭場よりも、長さにして2倍、面積にしたら4倍は広い。下名栗の獅子舞の発展はこの広い庭場を抜きに考えられない。下名栗の獅子舞冊子では次のように説明している。 『この広い庭場を目一杯使おうとして、「捨て足」と呼ばれるスキップを多用して、大きく、スピード感のある動きを作り出しました。その結果、テンポも次第に早くなってきたと考えられます。』(一部抜粋)
 下名栗の笛が速い理由はもちろんのこと、ササコという下名栗の獅子舞の型も、この広い庭場がその成立に関与した可能性があると考えられます。
 大丹波の庭場は長辺方向が2つあり、どっちの方向で舞うことも可能である。そのため、演目によっては通常と違う方向で狂うことも可能である。それが、太刀懸の刀を抜き払うときの所作にも表れている。また、大丹波の庭場は、観客が一段高いところからも参観できるので、最後の「散らし」のときに、獅子が階段の上の方まで行くことができる。これが長時間をかけて観客とともに盛り上がる大規模な「散らし」の一因になったとも考えられる。
 一方、社会のあり方が大きく変わった時代の変革期にも獅子舞が大きく変わらざるを得なかったであろう。現在の高水山の場合、過疎化や少子化が本来の獅子舞のあり方に大きな影響を与えている。昔は、ササラは小学校高学年くらいの女子が演ずるものであったが、現在では男子も加わり、他の地域からも応援してもらっている。
 会社勤めの人が主体になった現在では、林業が主要産業だった頃と比べて獅子舞も変わらざるを得ない。祭礼日の変更だけでなく、日頃の練習のあり方にも影響が及んでいる。
 長年にわたる小さな変化の積み重ねと時代の変革期に獅子舞は大きく変化する。しかし、その変化の方向性は最初から決まっていたわけではなく、たまたま現れた演者や指導者の資質や個性に影響され、さらに時代の変化を乗り越えることによってなされたものであろう。いわば偶然にまかされた面があり、もし、時代をさかのぼって同条件で再度伝授するといった壮大な実験が仮にできたとしても、数百年後に現在と同じ形になるという再現性はあり得ないと思われる。
 ともあれ、獅子舞の分化や多様化は自然の流れであり、これが各地に伝承されている獅子舞や郷土芸能の価値を高めあっていると考える。

【資料1】「仲間法度之事」

写真 古文書の写し  獅子舞伝習時(1768年,明和5年)の決まり事を記した文書
  「仲間法度之 事」
 一  藝古中喧嘩口論者勿論仲間相談違背仕間鋪事
 一  博奕諸勝負一切間敷事
 一  世話人藝古者無用之節者不参切間敷事
 一  師匠之教訓相背間敷事
 一  晩々藝古終脇泊り不致宿へ罷帰可申事
 一  藝古中酒文遊興堅停止之事

右之條々世話人并仲間中急度相守違背仕間鋪事候
万一於仲間相背候者有之候ハハ世話人相改急度停止可仕候
為藝古中法度仍而如件
  明和五年子ノ七月

【資料2】「日本獅子舞之由来」

 高水山に所蔵されている「日本獅子舞之由来」…獅子舞の起源に関する部分の大意

 1245年3月節句の夜、宮中で御宴が催されたおり、一天にわかにかき曇って雷鳴とどろき、天地震動したかと思うと、ものすごい光り物が飛んで来て紫宸殿の庭へ落下した。参列していた客は大いに驚き恐れたが、よくよく見ると三つの動物の頭らしき物であった。
 しかし、誰一人としてこれが何物であるか判らず、「かような物が宮中へ飛来するのは天下騒乱の前兆であろう。ただちに海へ捨ててしまえ」ということになったが、天皇の命令で石清水八幡に占ってもらったところ、「これぞ南天竺の洞ヶ岳に棲む獅子という動物の頭で、この獅子の頭が我が国へ飛来したことは希有の吉兆である。この三つの頭をかぶり舞うときは、日本国は永久に天下泰平であろう」とのことであった。
 そこで、下総国の角兵衛という舞の上手な者が弟の角内・角助と共に宮中に招かれ、獅子頭をかぶって勇ましい舞を演じた。というようなことが書かれており、全国的にも同様な説話となっている。 …「高水山獅子舞の解説」より抜粋

【補足説明1】成木7丁目の古称

  現在の成木7丁目は昔(江戸時代)は大沢入村(おおさわいり村)と呼ばれていた。しかし、[おおさわいり村]という呼称は少し言いにくく、次第に呼びやすい[おおぞうり村]に変化していったと推測する。近隣の高齢者の中には[おおぞうり]という呼び方で通ずる人がいるのではないかと思われる。(2021年9月20日追記)
 追加補足…以下は推測であり、可能性の高いものから順に記す(2021年9月22日追記) [大沢入(おおさわいり)]から[おおぞうり]への変化は考えられなくはないが、変移のしかたが少し大きい気がしている。そこで、個人的な推測に過ぎないが次のように考えてみた。 「もしかしたら、[大沢入]は[おおさわいり]とともに[さ]が濁音になった[おおざわいり]とも呼ばれていたのではないだろうか。[おおざわいり]ならば[おおぞうり]への変化は非常にたやすいことのように思える」
 (2013年に100歳で死去した父に生前聞いてみたときには、確かに[おおさわいり村]と言っていた。しかし、1912生まれの父であっても江戸時代以前の遠い昔のことは伝聞に過ぎず、その知識が正確だったかどうかは分からない)
(2021年9月26日追記) 大沢入の地名の由来については文字通り「沢」が関係していると推測している。「大きな沢が流れるところに入る」とか「多くの沢があるところに入る」というような意味からつけられた地名と考えるのが自然である。成木街道を遡るとある所から人家が少なくなり、ついに人家が途絶えるところがある。しかし、そこを過ぎると再びある程度の人家がある川沿いの集落(上成木)に入る。ここ成木7丁目(旧大沢入村)は成木川の最上流部に位置し、この辺りから先(上流部)の川は、川というよりも「大きな沢」と言った方が良いような所である。他所から来た人には「沢に沿った集落に来た(入った)」と思えたのかも知れない。成木川上流部
 川と沢の違いは、私の感覚では水量や流域の長さの違いとともに、水面までの高さの差が関係しているような気がしている。沢の方が川よりも道との高さの差が小さく、橋などがなくても横断できるようなイメージである。私が小さかった頃の話であるが、明治時代に生まれ育った祖母は、「昔の川はもっと浅かった」と話していた。隣を走る道路や近くの人家との高さの差がもっと小さく、川に降りるのがたやすいので洗い物も川で行うことがあったとのことである。
 これが数百年も昔の話であったなら、更に川が浅かったのであろうと想像する。平安・鎌倉時代の武将である畠山重忠は生家の隣を通る小沢峠を往来して鎌倉と埼玉の居住地を往復していたと伝えられている。小沢峠の麓にあるこの川を渡らなければ鎌倉との往来ができないのであるが、この時代だったならば橋はかなり簡便なものであったろうし、もともと橋などがなくても乗馬したままで楽に川(沢)を渡ることができたのではないかと想像する。恐らく、このあたりの成木川は、昔は川というより大きな沢と言った方がふさわしいような状況だったのだろうと考える。
 別の視点として、「多沢入」が「大沢入」になったという見方もできる。この辺りでは、近くの山の谷間からの清水が「多くの沢」となってこの川筋に流れ込んでいる。「多沢入」の「多」が同音の「大」に変化して「大沢入」になったとも考えられる。
 もう一つは「大」という文字を「立派な」とか「誇らしい」といった意味で取り入れて、「大沢入」とした考えである。自分たちの生活を支えている川(沢)に愛着と誇りを持って大沢と呼び、村の名前も「大沢入村」とした可能性も考えられる。
 以上は個人的な推測にすぎず真実は不明である。しかし、「大沢入は沢に関係してつけられた地名である」と考えるのが最も自然である。
(もっとも、川というよりも沢と言った方がふさわしかったり、多くの沢が流れるところは山間部なら普通のことである。したがって、よくありそうな地名の気がするが、それぞれの地名の由来は過去に起こった出来事等に因んだ場合も多いと考えられるため、その重なりは案外少ないであろう。
 余談であるが、成木川は多摩川水系でなく荒川水系である。高水山や名坂峠に降った雨粒が上成木側の沢に入れば荒川の水、そうでなかったら多摩川の水になる訳である)

 この地区に人々が住み着いたのは少なくとも平安時代までは遡ることが分かっている。(注記参照)したがって、この頃からついていた地名なら上記の推測が一番近そうな気がしている。
しかし、現在では思いもつかない別な理由を由来とする地名である可能性もある。また、この地名が平安時代よりもずっと時代を遡った時からついていた可能性もある。極端な場合を考えると、太古に言語が隔たる人々が当地にも住んでいて、その人々によって名付けられた地名が後の人々に受け継がれて「大沢入」という表記を当てはめたのだとしたら、「沢」とは無関係であり地名の由来を推測することは非常に難しい。
 (注記)「常盤(ときわ)むかし話」の常盤御前や畠山重忠の当地への関わり、もしくは「高水山縁起」の智證大師(円珍)の話から、少なくとも平安時代には当地に人々が住んでいたことが分かる。 

【補足説明2】獅子舞の伝習

  獅子舞の伝習については、明和5年(西暦1768年)の6月と7月の2回に分けて大丹波から師匠の人たちが10名入来し、瀧之上の大照院(大聖院)で現地の21名の若者が伝習を受けたことが古文書より分かっている。
 また、この古文書(當村獅子舞縁起書 )に出てくる人物の何名かについては、現在のどの家の先祖に該当するかが推定できる。苗字は変化することがなかったと思われる上に、名前の一字(場合によって名前そのもの)を子孫が受け継ぐことがかつてはよくあったからである。 (2021年9月20日追記)


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