獅子頭、刀、日本獅子舞来由 等について

獅子頭の比較

1.獅子頭の形態
 獅子頭の形態については大丹波と高水山がよく似ており、名栗のものが他の2カ所と少し違うように感じる。大丹波と高水山の獅子頭は鼻の穴がかなり大きく、額から鼻先までの長さも長い。この2カ所の獅子頭は竜頭であると思われ、子供の時、父に「高水山の獅子はライオンなのか」と聞いたことがあるが、このとき父は「高水山の獅子はライオンではなく竜だ」と答えていた。おそらく昔からそう言い伝えられ、認識されてきたものであろう。
 これに対し、下名栗の獅子頭は本来の獅子(いわゆる唐獅子)だと思われる。写真で分かるように巻き毛の立派な鬢があり、より唐獅子的な特徴を持っている。
 一般に古い獅子頭は鼻の穴が大きいとのことなので、伝承の順番から考えても大丹波のものがもっとも早くに作られ、次が高水山のものであろう。

※写真はビデオからの複写もあり、写りが悪く色もよく出ていません
大 丹 波
高 水 山
下 名 栗
 大太夫 大太夫  大太夫 大太夫  大太夫 大太夫
 中太夫 中太夫  小太夫 小太夫  小太夫 小太夫
 女獅子 女獅子  女獅子 女獅子  女獅子 女獅子

 桜井保秋氏は「獅子の風」という西多摩の獅子舞を網羅する立派な写真集を出版されたが、ここには40カ所の獅子頭が載っている。この40カ所の獅子頭を見比べてみての個人的な感覚では、高水山の獅子頭と一番似ているのが大丹波のものであり、次に似ているのが沢井のものであるように思う。それ以外の37カ所は少し違うタイプのように感じる。
 大丹波の獅子頭は牙を持つ点で沢井と共通しており、角の付き方や額と頭部の境が特徴的(渦巻き模様や三角形で段差)であることも沢井のものと似ている。
 高水山の獅子頭が大丹波と近いことは当然といえば当然のことなのかも知れない。上成木高水山で獅子頭を作ろうとしたとき、師匠である大丹波に相談したであろうことは十分考えられる。同じ店(工房)で作ってもらった可能性が高いが、そうでなかったとしてもその店(工房)と何らかのつながりがあるところ(そこで修行した職人が持った店など)で作ってもらった確率は高いのではないだろうか。大丹波の獅子頭と高水山の獅子頭がどのくらいの時代差があるか分からないが、たとえ六、七十年違ったとしても同じ店あるいはそことつながりを持つ職人の作品ならば、作風は十分受け継がれるものであろう。
 ※ 名栗の獅子頭は、文化5年(1808年)の作であることが明記されているそうです。すでに200年以上使われていることになります。高水山の獅子頭についても、いつどこで作られたものか調べてみたいものです。浅草で作ってもらったということを、子どもの頃に古老から聞いたことがあるので、店の名前や制作年についても古文書に書いてあるか、獅子頭のどこかに墨書されているのではないでしょうか。(※2009年9月訂正と補足 : 保存会の人に聞いたところ、「前回の塗り替えの時に墨書の有無を調べたが、残念ながら制作年等を記したものはどこにも見つからなかった」とのことである。しかし、伝承や獅子頭の形態から考えて、高水山では創始期からこの獅子頭を使っていたと考えて間違いないと考える。)

2.獅子頭の色
H21年度高水山獅子舞の案内状より 岩下様撮影の写真  三匹の獅子頭はそれぞれ金色、黒色、赤色に塗り分けられているのが一般的であると思っていたが、他地区の獅子舞を見たり桜井氏の写真集を見て、このように色分けしているのは案外少数であるということが分かった。多摩地区の多くでは全て同色ということころがかなり多い。三匹とも黒色というところが多いが、白丸元栖神社などのように全て金色というところもある。黒色と赤色の二色というところも割と多く、その場合は女獅子のみ赤頭であり他の二匹の雄獅子は黒頭である。
 高水山と同じ色分けをしているのは日原と原であることが分かった。(ただし、日原では黒色の獅子が大太夫で、金色の獅子が仲太夫である。高水山・下名栗とは獅子の色が逆になっているが、角の形状では大丹波・高水山・下名栗・日原とも一致している。つまり、ねじれ角を持つ獅子が大太夫、まっすぐの角を持つ獅子が小太夫(日原では仲太夫)で、角が無いのが女獅子である。本来は色分けよりも、角の形状・有無で獅子を識別するものなのかも知れません)
獅子頭の色で三匹の獅子を区別できないところでは、角の有無や形状とともにいくつかの工夫、たとえば太鼓に書かれる紋の色や水引き幕の図柄の違い等様々な方法で獅子を識別するようになっているところが多い。一方、三匹の獅子の形態や色が似ており判別しにくいところでは、その必要性があまりない芸態の獅子舞であるということも言えそうである。  【左の写真 平成21年高水山祭礼案内状の写真(岩下敦郎様撮影)】

 2007/12/26追記  

 ( 高水山系統の獅子舞は、自分が今まで拝見した獅子舞の中で、三匹の役割の違いがかなり明確になっている方であると思う。それは、獅子頭の色分けが黄金色(大太夫)、黒色(小太夫)、赤色(女獅子)とはっきり色分けされているために、演目の中での各獅子の役割の違いや立場の違いのようなものがよく分かるからである。あるいは、後先が逆になってしまうが、「高水山の先人達がストーリー性に富む(※)この獅子舞を、より一層分かりやすく見てもらうために獅子頭を色分けした」と考えることもできるかも知れない。 
 ※ どこの獅子舞でも「女獅子隠し」という演目については三匹のそれぞれの役割の違いは明確であるが、それ以外の演目ではその違いがあまり感じられない。しかし、高水山系統では「御幣懸り」や「竿懸り」でも各獅子の舞う順番が違う上にその役割も違う。オーバーに言うと性格付けの違いのようなものがわりとある獅子舞のように感じられる。)

3.高水山の獅子頭 雑記
 ※獅子頭は桐材でできているそうです。(他地区のものもそうだと思います。)桐は日本の木材の中で最も軽く、獅子頭として最適だったようです。また、獅子頭の内側には人の頭の大きさに合う竹製のカゴが取り付けられています。大太夫や小太夫の鼻の穴は大きく、口も少し開いている(特に大太夫)ため、そのままではこれらを通して中の竹カゴが見えてしまいます。うろ覚えなのですが、私がごく小さい頃には鼻の穴や少し開いた口を通して中の竹カゴが見えていたような気がします。(鼻や口の中は暗いので、注意して見れば見ることができたというレベル)
 しかし、小学生くらいの頃からはこれらに各獅子の色に見合ったちり紙(女獅子は赤色、小太夫は紫色、大太夫は黄色)が詰められており、竹カゴを見ることはできなくなっています。
個人的には高水山の獅子頭は均整のとれた立派な獅子頭だと思っています。また、「ずいぶん腕の立つ職人が当時はいたものだ!」と感心もしています。でも、子供の頃からよく見てきた獅子頭なのでそういう思いが強いのかも知れません。
 ※ 漆は過去何回かは塗り替えてきたと思われます。40年以上前の大太夫(金色の獅子)の色は、あまり鮮やかでなく少し黒みを帯びたような感じだった気がします。赤や黒と較べ、金色を出すのが難しいのでしょうか。また、子どもの時の記憶では、どれかの獅子の鼻が少し欠けていた時期もありました。これは、白刃の演目で、刀が少し触れてしまい欠けた可能性があります。

獅子舞で使う日本刀について

高水山 白刃の刀

 太刀懸り(白刃)という演目では2人の太刀遣いが出て獅子を囃すが、そこで使う刀は、昭和21年くらいまでは高水山常福院に伝来されていた二振りの日本刀が使われていました。これらの刀はかなりの名品だったと聞いています。しかし、敗戦後GHQが、刀剣類を持っていてはいけないという達しを出したようで、この頃獅子舞の荷物運びをしていた人が、勝手な一人判断で、この二振りの刀を供出してしまったとのことです。後から考えて見れば、価値ある刀剣については供出を免れることができたはずなので、重ね重ね残念なことである。
 しかし、供出した人の立場になって考えて見れば、このような法律の特例については知らなかったであろうし、何よりも当時のGHQの威光は想像以上で日本中から畏怖されていたようなので、無理もないことだったのであろう。
 そこで、しばらくは、地元のさる家が所有している日本刀を拝借していたようだが、いつまでも祭礼の度ごとに借りるわけにもいかないので、一振りは地元の小山様から、もう一振りは沢井の方から寄進していただいたとのことです。
 高水山で使う刀は下名栗のものより長くて重量がある。白刃では、獅子を舞う人が重量のある真剣を水引幕越しに直接くわえて舞うので、歯の丈夫な人でなくては務まらないと聞いたことがある。刃のついた真剣なので獅子頭の口に取りつけるわけにはいかず、舞人が直接くわえることになる。そしてこのことが舞のスケールをいっそう大きくしていると思える。刀を獅子頭に取りつけていては刀のゆるみ具合や相手との距離感がつかめず、狂い方が消極的になりやすいのではないだろうか。高水山と下名栗では、刀をくわえた獅子が得意になって「自分の刀の方が良いだろう」と互いに接近して見せあう場面があり、相当危険でもあるが、これは舞人が直接くわえていることにより為せる技であろう。
 (※多くの獅子舞では、真剣と称していてもほとんどが刃を落としたものを使っているが、高水山と下名栗では刃のついた本当の真剣を使っている。) 高水山獅子舞の解説
 ※高水山で昭和21年頃まで使っていた刀は、二振りがそろっており大変素晴らしいものであったとのことである。多少細身であったが長さは現在のものよりもさらに長く、白刃の太刀遣いが少し小柄な人の場合、鞘から抜くのに苦労したとのことである。(この二振りの刀は、どこかに必ず現存しているはずです。)
 現在のものは、一振りは地元の小山様から、もう一振りは沢井の方から寄進していただいたとのことです。もともとペアの物ではないので、拵えも少し違うということです。(保存会 中島様より)

日本獅子舞之由来について

 現地には「日本獅子舞之由来」という古文書が伝えられております。高水山の場合は常福院にその巻物があり、これと付随する伝授の際の取り決め等の古文書類は、当時獅子舞の主導的役割を果たしていたと思われる数軒の家に伝えられています。(そのうちの一軒は、生家の目の前の家です。)これらの古文書類は本来秘伝の書であり、やたらに見ることはできません。したがって浅井徳正先生や石川博司先生が調べられ発表されてきたものを見るしかないのですが、各地に伝わる日本獅子舞来由もしくは日本獅子舞之由来は、その内容がほとんど同じだそうです。しかし、石川先生が調べたところ、最後の「神法秘文口伝」の第二秘文が青梅市沢井に伝えられる巻物と高水山に伝えられる巻物とは異なるとのことです。
 神奈川県相模原市の下九沢や大島にも「日本獅子舞来由」が伝えられていると知り、図書館で下九沢の第二秘文を見たところ、面白いことに沢井ではなく、名称がちょっと異なる(来由と由来の違い)高水山の「日本獅子舞之由来」の方と一致しました。しかし、下九沢や大島の獅子舞と高水山の獅子舞とは、演目やその所要時間を考えるとまったく別系統の獅子舞のような気がします。さらにTVK製作の神奈川再発見で、下九沢の獅子舞は奥多摩町小留浦から伝わったと紹介されていたが、これについても疑問に思う。映像から判断するだけであるが、由来書が伝わっているにしては獅子の形態が由来書に従っていない部分もあるようでこれも不思議なことである。
(なお、大丹波・高水山・下名栗の巻物は日本獅子舞来由ではなく日本獅子舞之由来だと思いますが、本当のところはどちらの名称でもよいのかも知れません)

  青梅市 高水山巻物 第二秘文
南無三社三光祇園三宝四大天王瑠璃光弁財 大達八将十二神八大大六不動明王大悲観音 拾六善神南無皈命頂禮諸天神護阿鑁吽
  青梅市 沢井巻物 第二秘文
南無天照大神宮八幡大菩薩 春日大明神梵天帝釈四天王 八百萬護法善神阿鑁吽
出典「石川博司先生」

 秘伝書の授与は、獅子舞が始まった初期においては、これらを伝えた一部の人達の生活のためであったかも知れない。三匹獅子舞の最初の創始者は誰かと考えたとき、やはりいろいろな研究者が指摘するようにプロの仕事と考えるのが妥当である。仕事をもった一般人が、たとえ素朴なものであったにせよ、相当数の演目を数える笛・歌・舞いを含んだ総合芸能を簡単に作れるはずはないからである。プロの芸能者達が最初に作り上げたものだとすると、現在の音楽でも演劇でもそうだが作者にとって、無許可で見よう見まねで勝手にどんどん真似されても困るものであろう。由来書という権威ありそうな巻物を与えることは、これらのプロの芸能者の生活の糧であったのかも知れない。
 しかし、それ以降の時代になってからは、一般の地域住民による伝授が主体になっていったと思われるので、少し意味合いが違ってくる。秘伝書の授与が純粋に獅子舞を修得した証として渡されたものだろうと思う。 高水山 ブッ揃え(舞の始まる前に呼吸を揃える)
 獅子舞の伝授と由来書の伝授は時間的なずれがあり、二つの相関関係はないという人もいますが、大丹波(青木神社)〜成木(高水山)〜下名栗(諏訪神社)の場合は、由来書の受け渡しをもって免許皆伝の証としたと思われます。「広報なぐり」NO.304(2001年8月発行)を見ると、「文化5年が習い始めた年に当たると推定され、免許皆伝の証の秘伝書が渡されたのが天保14年、修得に35年を要した」と書かれています。高水山の場合は、獅子舞の伝授が明和5年で由来書の伝授が寛政7年である。その間の27年間が、免許皆伝の秘伝書を手に入れるまでに要した歳月と考えることができます。この、「角兵衛獅子 天下一日本嫡流獅子」というお墨付きをもらうのに、ずいぶん長い歳月を要したものだとも思うが、現在の高水山でも1つの演目をマスターするのに3年かかり6つのすべての演目と太刀遣いをマスターするには順調にいっても20年かかるので、そのくらいの年月は必要だったのだろう。まして、ゼロからのスタートということなので、笛・歌・舞のみならず様々な決まり事を修得し、なおかつ次代への継承システムを作り上げるには、それなりに時間もかかることだったのだろう。
 今の感覚でいえば、由来書が有ろうと無かろうと別にどうと言うこともないのだが、この秘伝の巻物のもつ精神的なバックボーンは伝承の上で大きな意味を持っていたと思える。獅子にまつわる様々な謂われと獅子の形態等に関する約束事を伝えるだけでなく、簡単に手に入れられたものではなく、気軽に見られるものでもないという神秘性も相まって、当時の人達にとっては尊崇の対象にもなっていたのではないだろうか。
※江戸時代頃までは免許皆伝と秘伝書(巻物)の授与はセットだったと考えられる。高水山の現地の人も免許皆伝の証として巻物が授与されたと認識しています。また、この秘伝書以外に獅子舞に関する古文書もいくつか伝えられており、決まり事等についてはかなり厳格に守られてきたものと思われます。

 天保14年に下名栗に免許皆伝の証として巻物を譲渡した際にとり交わしたと思われる議定書を次に記します。※原典にあたったものではなく、石川博司先生が調べられたものです。

  「御獅子一件儀定書之事」


 右巻物之儀者 仁皇八拾七代之御帝後嵯峨院御帝より相傳り候大切成秘書御座候所 草双紙同様慰ミ披見為致又者写為取候儀仕間敷候事 以來獅子仲間之外他人者不及申 縦親類縁者たりといふとも 獅子さゝら無之村々江写為取候儀申間敷候事 尤外村より所望而御獅子さゝら指南仕 其上巻物譲り渡候節 此議定書相添譲り渡可申事


 御獅子巻物之儀者 太夫獅子狂候方江譲渡可申事 勿論譲渡候節者 獅子仲間相談之上而 奪取不相當様 譲主ハ書面之儀定相添譲り渡可申候 且亦譲請候仁者 末仕間敷候旨 一札取替セ譲渡可申候事 右之絛々堅相守可申候 若シ心得違之輩有之おゐて者 獅子仲間を相除キ可申候事

   天保十四癸卯年七月
        武州多摩郡 上成木大沢入村
                   濱名 孫右衛門
                   川 口  清 蔵
        武州秩父郡 下名栗村
          若衆代     栄 蔵 殿
          村役人代    伊之助殿
          世話人     八五郎殿

「日本獅子舞之由来」が説明する獅子舞の起源について…高水山獅子舞の解説より抜粋

LINK 日本獅子舞之由来 (高水山所蔵の原典)

 高水山に所蔵されている「日本獅子舞之由来」と題する巻物によると、
1245年3月節句の夜、宮中で御宴が催されたおり、一天にわかにかき曇って雷鳴とどろき、天地震動したかと思うと、ものすごい光り物が飛んで来て紫宸殿の庭へ落下した。参列していた客は大いに驚き恐れたが、よくよく見ると三つの動物の頭らしき物であった。
 しかし、誰一人としてこれが何物であるか判らず、「かような物が宮中へ飛来するのは天下騒乱の前兆であろう。ただちに海へ捨ててしまえ」ということになったが、天皇の命令で石清水八幡に占ってもらったところ、「これぞ南天竺の洞ヶ岳に棲む獅子という動物の頭で、この獅子の頭が我が国へ飛来したことは希有の吉兆である。この三つの頭をかぶり舞うときは、日本国は永久に天下泰平であろう」とのことであった。
 そこで、下総国の角兵衛という舞の上手な者が弟の角内・角助と共に宮中に招かれ、獅子頭をかぶって勇ましい舞を演じた。というようなことが書かれており、全国的にも同様な説話となっている。
……「高水山獅子舞の解説」より抜粋
最初の部分に上記のような話しが記載されている日本獅子舞之由来、もしくは日本獅子舞来由という巻物は、西多摩および秩父地方にいくつか存在する。ここに書かれている獅子舞の起源についての内容は信じがたいものであり、恐らく、最初にこの巻物を作り上げた人が、「いかに権威ある巻物であるか」を示すために創作した作り話であろう。しかし、巻末に書かれている日付や人々の名前あるいは地名については信じられるものであり、地名はもちろん名前についてもどこの家の先祖であるかはある程度推測ができるものでもある。
 この巻物で判ることはいくつかあると思われるが、まっさきに頭に浮かぶのは獅子舞の伝播経路である。正しく免許皆伝として与えたものならば、獅子舞の系統がある程度つかめるのではないだろうか。もっとも、途中で廃絶して復興するにあたり、巻物を伝えた元の獅子舞でなく他の獅子舞を習ったという場合は、巻物の伝授関係と獅子舞本来の伝授関係が異なるという結果にもなるのだが。

日本獅子舞之由来(日本獅子舞来由) ○は由来書のおおもとの出所
  ○奥多摩町大丹波(青木神社)…青梅市上成木(高水山)…埼玉県飯能市下名栗(諏訪神社)
  ○青梅市沢井…山梨県丹波山村  ※沢井の獅子舞は一度廃絶し、丹波山村の獅子舞を習って復興したと聞く。
  ○奥多摩町小留浦…檜原村沢又…檜原村数馬
                檜原村沢又…奥多摩町峰
                 檜原村沢又…檜原村泉沢
   奥多摩町小留浦…奥多摩町原     
  ○奥多摩町境   ※川井の獅子舞は、境の獅子舞を習って復興したと現地の人に聞いた。
  ○奥多摩町大氷川 ※巻物は伝授されなかったようだが、棚沢や栃久保の獅子舞も同じ系統であろう。
  ※秩父市浦山の昌安寺にも同書のものが存在しているという。出典…パルテノン多摩歴史ミュージアムでの「落合白山神社の三匹獅子舞」冊子 P48より (町田市立博物館 畠山 豊 先生)

  上記の獅子舞は、遠近の差はあるもののどこかで繋がっており、大元をたどれば一致するものであろう。
 大丹波の獅子舞は他の奥多摩地方の獅子舞と笛も演式もかなり差があり、近縁のものを捜しにくいのであるが、それでも何となく感ずることは大氷川系統の獅子舞とどことなく舞い方が似ている気がします。(高水山や名栗となると、大氷川とも離れた感じになります。 大氷川の例を出したのは、自分が今まで見てきた中で捜した場合であり、すべての獅子舞を見ていたらもっと近いものが見つかると思います。※大氷川系統の獅子舞は各演目で必ず囃子方が登場し、その衣裳も風流的で所作をみると古い形のものをしっかり継承しているようでとても貴重です。)
 下名栗のパンフレットにも示されているように、まず最初に奥多摩の一部の獅子舞の祖となる文挟流の獅子舞が存在し、それを大幅に改作して大丹波の獅子舞ができあがったような気がします。大丹波の獅子舞はその構成や内容が複雑になっており、獅子舞歌の歌うところをストーリーが終わった時点でまとめて歌うようにしています。また、演目数を6つに減らすことによって1つ1つの内容を深くし、結果的に各演目が規模の大きいものになったと考えられる。
また、道化による即興的な笑いや場の盛り上げよりも、獅子舞自体の本質的な部分を重要視してきた獅子舞のようにも感じられる。
 大丹波の獅子舞は1661年から始まったと言われており、他の地区の獅子舞と笛や演式がかなり異なることを考えあわせると、場合によったらプロの芸能者から直接伝授された可能性もある。もし、プロの芸能者によって伝授されたのなら、関東地方のどこかで似たような形態、似たような笛の調べをもつ獅子舞が存在するであろう。このような獅子舞が離れた土地で見つかれば、プロから伝授されたと断言できよう。
 一方、もし、いにしえの大丹波の先人が、それまでの獅子舞を大幅に改良して新しい獅子舞を作り上げたとするならば、それは「恐るべき才能をもった人が大丹波にいた」と言うべきであろう。

巻物(日本獅子舞之由来)とは何か

(2007/8/27)

 そもそも日本獅子舞之由来(あるいは日本獅子舞来由)という巻物とは何であろうか。個人的な推測の域を出ないが、現時点で想像していることを記す。
現在、日本獅子舞之由来もしくは日本獅子舞来由という巻物を伝えている獅子舞は全国で十数カ所におよんでいるそうである。西多摩地方が大部分であるが、それ以外には埼玉県(数カ所)、山梨県(二カ所)、神奈川県(二カ所)に伝えられ、長野県(一カ所)でも同様なものが伝えられているとのことである。そしてこの巻物に記載されていることは、「日本の獅子舞(三匹獅子舞)の始まりについて」、「獅子の形態やその約束事」、「秘文や真言」、「山崎角太夫の印と年号」、「伝受した側とされた側の名前と年号」等である。
 いったいこの日本獅子舞之由来(日本獅子舞来由)という巻物とは何なのであろうか。
 それは恐らく、「奥義を極めた証として授けられる免許状」であり、武術や伎芸等で免許皆伝時に伝受されたいわゆる秘伝書(巻物)と同様なものであろうと考える。
 その理由はいくつかある。まず第一に、高水山および下名栗の人々は現在でもこの巻物を免許皆伝の証として授与されたと認識しているからである。(「高水山の獅子舞解説」および「広報なぐり NO.304」(2001年8月発行))
次にその中味である。日本獅子舞之由来にはその芸事の成り立ちや諸式について記載されているが、武術等の巻物にもこれは必ず書かれているはずである。実際には武術の巻物を見たことはないが、免許皆伝としての秘伝書ならば必ず芸事の意味やその技について書かれていなければ意味をなさないものであると考える。
そして、その約束事も両者で共通していることが多いと思う。多くの武術や伎芸ごとでは、技の流出を防ぐとか他言無用とかの厳しい約束事が巻物に書かれているようであるが、日本獅子舞来由についても同様の約束事が記載されている。また、巻物は秘伝書ともいわれ、現在でもこの巻物を見ることは安易に許されず、「見たら目がつぶれる」などと言い伝えられている。これも、武術等での巻物と共通していることであろう。 恐らく、日本獅子舞之由来という巻物は、免許皆伝の証として師匠側から授与された免許状と考えて間違いがないであろう。

 さて、巻物と聞いて頭に浮かぶのは、歌舞伎や時代物の映画などで、妖術使いなどが手で印を結んで口に巻物をくわえて現れたり消えたりするシーンである。忍者ものの映画などでも同様な場面が描かれていることがある。
 荒唐無稽な感じではあるがこのように描かれるのは、巻物を手にすることが何十年もの大変な練習や修行の上にはじめて可能になるものであり、それ故に神秘性をも合わせもったものとして認識されていたからであろう。巻物を最初に作った人も自分たちの芸を権威づけるため、このように認識されるよう努めた節がある。自らの生活のためかも知れないが、自分たちの芸を特別に大切なものと認められるよう自ら演出したと思われる。巻物の最初には次のような話しが記されている。
 「寛元三年(1245年)3月節句の夜、宮中で御宴が催されたおり、一天にわかにかき曇って雷鳴とどろき、天地震動したかと思うと、動物の頭らしきものが3つ紫宸殿の庭へ落下した。しかし、これが何物であるか誰にも分からず、天皇の命令で石清水八幡に占ってもらったところ…」
これは獅子舞の起源に関する出だしの部分(要約)であるが、ここには天竺などの異国の名前や宮中・天皇・著名な神社等の名前が随所に出てきている。恐らく、これら(天竺・天皇・石清水八幡等)を語ることによって、巻物の作者は巻物とこの流派の獅子舞を権威づけたのではないかと思う。
 また、獅子舞の諸式の話についても、仏教的な知識やなるほどと思わせる話によって権威づけや理由付けがなされている感じがする。三匹の獅子の意味が「仏・法・僧」あるいは「日・月・星」の三つであるとか、花笠が四つの意味も「四天王」や「春・夏・秋・冬」になぞらえたりしている。獅子の頭髪が鳥の羽になっている理由も孔雀鳳凰との関連で述べられている。難解な神法秘文や真言等を記載することも、この巻物を尊いものに見せるのに大きな役割を果たしたのではないだろうか。

 こう書くと、子々孫々と大切に伝えてきた現地の人々に失礼にあたるかも知れない。しかし、現代に生きる我々と昔の人では受け取り方が違って当然である。いろいろな事象が科学的に解明され、大きな歴史の中でその時代をながめることができる現代人と、その真っ直中にいた江戸時代の人では、認識のしかたに違いがあって当然である。信じがたい獅子舞の起源の話やこじつけと思われる話でも、昔の人は素直に受けとめありがたいものとして大切に受け止めたはずである。
 だからこそ巻物が大切に保管され、そして獅子舞も数百年も絶えることなく伝えられてきたのであろう。実際のところ、獅子舞の約束事は近年まで堅く守られてきたと思われる。例えば、獅子舞を地区を出て演ずることの禁止は近年まで固く守られてきており、身内に不幸があった場合の獅子舞の遠慮などは現在でも守られている。事例を探せば、これ以外にも現在でも受けつがれていることはいくつかある。
(※補足) 個人的な見方にすぎないが、このような伝書(由来書)を受けついだ獅子舞には、芸態が非常に見事なものがいくつかある。それは、何年間にもわたる芸の修得により伝受を許された獅子舞であり、また、もともと山崎角太夫なるプロの芸能者(あるいは芸能者一門)が確立した獅子舞を元祖とするものであるからかも知れない。

巻物に書かれた真実と奥書による2系統の謎

(2007/9/1)

1 巻物に書かれた真実

 日本獅子舞之由来の獅子舞の起源についての話はいささか信じがたい面がある。しかし、だからといってこの巻物(由来書)の存在意義が否定されるものではない。それはこの巻物のいくつかの部分に、実在の人物の名前や真実らしきことが散見されるからである。事実、山崎角太夫という人は確かに実在した人物だと多くの人が認めているし、場合によっては角兵衛、角助、角内の兄弟も本当にいた可能性がある。高水山の獅子舞は角兵衛流といわれているし、川井の獅子舞は文挟流角助派と聞いたこともある。実在の人物の名を流派名にすることは十分あり得る話である。(ただし、日本獅子舞之由来(由来書)の記載と若干の食い違いもある。由来書では「角兵衛流の花笠は4ッ、角内流は6ッ、角助流の花笠は8ッ」と書かれているが、角兵衛流といわれる高水山では花笠が4ッで矛盾はないが、川井の獅子舞が角助流なら花笠が8ッのはずだが、現行では2ッ少ない6ッである。)
 100%真実であろうと思われることは巻末に書かれている伝受を受けた人々の名前とその年号である。高水山でこの巻物を伝受されたのは記載されているとおり寛政7年(1795年)9月であり、受け取った側の代表は浅見七郎左衛門、加藤三左衛門、瀧嶋九郎兵衛の3名であることは間違いない。なぜなら、瀧嶋九郎兵衛なる人物は私の生家の目の前の家の先祖であることが分かっているからである。他の2名についても、どこの家の先祖であるかは推測できるものである。

2 奥書による2つの系統

 さて、日本獅子舞之由来(日本獅子舞来由)には、その奥書によって2つの系統があることが知られている。(畠山豊氏)
一つは天文元年(1532年)を奥書とする系統であり、「小留浦」「沢又(藤倉)」「数馬」「峰」「泉沢」「原」等をはじめとして数が多い。また、相模原市の「下九沢」や「大島」も同系統のようである。(ただし、下九沢の奥書の年号は元和2年(1616年)、大島の奥書は天文11年(1542年)になっているとのことである。)
 この系統は奥多摩町小留浦の日本獅子舞来由を大元の出所先とするようである。

 もう一方の系統は寛文元年(1661年)を奥書とする系統であり、これには「大丹波」「高水山」「下名栗」「沢井」「境」がある。
この2つの系統を比較して不思議に思うことは、一つ目の天文元年(1532年)の系統はかなり速いサイクルで次々にこの由来書が伝播していることである。小留浦系統の伝受の流れに、小留浦→沢又(藤倉)→数馬という道筋があるとのことだが、大元の小留浦の由来書の伝受が1781年に対し、沢又(藤倉)が1789年、数馬が1797年の伝受である。(落合白山神社の三匹獅子舞冊子より)
わずか8年足らずで次々と伝わっていることが分かる。また、伝受年の記載がない由来書もあるようで、これもこの系統の由来書から出ているようである。相模原の下九沢や大島の由来書も小留浦の由来書を写したものと考えられるが、芸態や獅子の形態の違いから考えて獅子舞自体とリンクした由来書ではなさそうである。
 それに対し、寛文元年(1661年)の系統は、伝受に非常に長い時間をかけている。高水山で巻物を手に入れたのは寛政7年(1795年)であり、獅子舞自体の伝来と27年間の時間差がある。下名栗では天保14年(1843年)に巻物が伝受され要した時間はおよそ35年間である。それぞれの獅子舞で、免許皆伝が許されるまでの時間は人の一世代にも相当する時間を要している。また、沢井の獅子舞の由来書は山梨県丹波山村にも伝えられたと聞くが、丹波山村では簡単には由来書の伝受が認めらなかったと聞く。後年、沢井の獅子舞が廃絶しかかったとき逆輸入の形で沢井側が丹波山側から教えを受け、この時初めて由来書の伝受が許されたとのことである。(石川博司氏)

 この2つの系統の違いと伝受に要する時間の差も興味深いものがある。後者の寛文元年(1661年)奥書の系統は免許皆伝という意味で伝えられたと思われるのに対し、天文元年(1532年)の系統はそれとは違った価値観で伝えられたものとも思われる。
(高水山では、由来書を補完する「御獅子一件儀定書之事」や伝習中の約束事である「仲間法度之事」という古文書があるが、1532年の系統ではそのようなものの存在を今のところ聞いていない。また、大丹波−高水山−下名栗では、今なおそれぞれの祭礼に代表の方々が訪問しあっており、獅子舞を通しての友好が続いている。それは、長期間にわたる伝授・伝習の記憶が数百年後の今日までずっと受け継がれてきているからであろう。
 しかし、サンプル数があまりに少なく、偶然にそのような結果になった可能性もありえるので断言はできない。小留浦系統の演式、芸態、笛等の伝受の精度を詳細に検証すると、もう少し分かることがあるかも知れない。

数馬と小留浦の獅子舞の比較

(2007/9/15)

 数馬(かずま)の獅子舞を初めて見たのは平成16年であった。この時は仕事の関係で、2演目しか見ることができなかったのであるが、最初に奏される庭への入場の笛が高水山・大丹波・下名栗の入場の笛(渡り拍子・道中笛)に少し似ていることに気がついた。しかし、平成18年に、数馬の獅子舞のルーツと言われる小留浦(ことずら)の獅子舞を見たときには高水山と似たメロディーがまったくと言っていいほど無かった。「同じ系統どうしの獅子舞なのにこれはどういうことなのか」と長らく気にかかっていた。
 ところが先日、畠山豊氏が著した資料を見ていて、「この系統の獅子舞では秘伝書の伝受に要する年数がわずか8年程度である」ということに気がついた。そこで、もしかしたら「小留浦系統の伝受の精度はあまり高くない可能性があるのかも知れない」と考えた。さらに大胆に言わせてもらえれば、「数馬の獅子舞は小留浦系統の獅子舞ではなく、秘伝書だけが小留浦系統のものが伝わった可能性も捨てきれない」とも考えた。そこで、今年もう一度数馬の獅子舞を見学して、改めて両者の差異を確認してみようと思ったのである。

1 笛の検証とその速さ

 さて、小留浦の獅子舞と数馬の獅子舞は、あいだに沢又(藤倉)をはさんでの伝受関係とのことである。ちょうど、あいだに高水山をはさんだ大丹波と下名栗の伝受関係に相当することになる。高水山の獅子舞を見たことのない人にとって、大丹波と下名栗の二つの獅子舞が同系統の獅子舞であると気づく人は少ないかも知れない。それは、舞いの型や所作が異なる上にそのスピードも全然違うからである。恐らく、長い歴史の中で歴代の師匠(親方)たちが独自の視点からそれぞれ技や見ごたえを追求し、それが蓄積されてきた結果であろう。また、舞庭の形状をはじめ地域の特性等の違いも差を広げていった要因であろう。
しかし、各演目のストーリー自体はすべて共通であり基本的な部分も同一である。特に注目すべきことは、笛の速さが違ってもメロディーは数百年たっても変化しなかったことである。(厳密に言うと使う楽器の違い(6孔笛と7孔笛)によって一部にわずかな音程の違いはある)
このことから、笛(曲)は長い年月の中でも比較的変化しにくいというのが個人的な見解であり、笛を検証することは伝受関係や系統を確認するのに大きな精度をもっていると個人的には考えている。
 今回、数馬の4演目を見てきたが、平成18年の小留浦と共通する3演目について、両者を比較してみた。ここで、「数馬の獅子舞と小留浦の獅子舞は系統が異なる」と出れば大発見であったのだが、結論を言うと「数馬の獅子舞は小留浦の獅子舞と同系統の獅子舞である」という通説通りの結果であった。それは、舞いの型を始めとして違いは多々見られるものの、笛のメロディーはほぼ同一であったからである。ただし、笛の速さが違う上に、強弱や間の取り方が違っており、かなり違った印象も受けた。
 下の表は両者の笛の速さを比較したものである。大丹波と下名栗の場合は、おおもとの大丹波の笛がゆっくりであるのに対し孫にあたる下名栗の笛が速い。しかし、小留浦と数馬では逆の結果であった。小留浦から見て孫にあたる数馬の方が笛がゆっくりであった。

※同一フレーズを奏するのに要する時間
演  目
小留浦(2006年)
数馬(2007年)
 幣がかり  29秒  42秒
 女獅子隠し  25秒  50秒
 太刀がかり(白刃)  23秒  34秒

※同一フレーズといっても、この系統の獅子舞に詳しいわけではないので、聞き取りやすい顕著な部分から次の聞き取りやすい部分までに要する時間である。数馬の白刃の場合は、後述のように獅子が刀をくわえる前とくわえた後で笛が変わるので、小留浦と同じ部分の笛の比較である。
笛の速さと舞いの速さは不可分の関係にあるが、恐らく舞いの速さの方が主導権をもっていると考えられる。つまり、その地なりの獅子舞の芸態に合わせたスピードで笛も吹いていると思われる。(数馬の笛吹はほんの数名しかいないため、一時、笛の速さは笛吹の個性にもよっていると考えたこともあるが、やはり、獅子舞の芸態に合わせて笛を吹いていると考えた方が自然であるように思う。それは、高水山や下名栗の練習の時、笛吹の方が獅子の舞い手(狂い手)に「笛の速さが丁度良いかどうか」確認していたことがあったからである。)
 小留浦と数馬では見た目でも小留浦よりも数馬の舞いの方がゆっくりだと感じていたが、ここに示した笛のデータでもそれが裏付けられたことになる。

獅子舞自体は長い歴史を通じて変化することは当然である。より良いものを追求したり、時代の変化に合わせるなかで変わることは随所にあるはずである。笛の速さについては数馬の笛が遅くなったというよりは、小留浦の笛が昔より速まっている可能性が強いと考えている。
 ※ 芸態の違いについても記したいのであるが、まだ1〜2度しか見ていないので適切に表現することができない。一番の主眼であった伝受の精度について、残念であるが現時点では言及できない。どちらも独自に変化していると思われるうえに、自分自身がこの獅子舞について深く知らないため、その原形(昔の型)を想像することができないからである。

2 数馬の獅子舞に見られる小留浦との違い

 数馬の獅子舞は小留浦系統の獅子舞であることは間違いないと思われるが、その中でいくつかの部分について違いもある。 小留浦では獅子の呼び方は「大太夫、女獅子、小太夫」だと記憶しているが、数馬では「大獅子、中獅子、後獅子」と呼ぶと聞いた。中獅子とは女獅子のことである。 また、数馬では奥多摩方面でよく行われている出囃子がない。数馬に伝わって出囃子が失われたと考えることもできるが、昔は小留浦系統の獅子舞に出囃子がなく、ある時代から取り入れられ、奥多摩方面に広がったのかも知れない。(この件については、今のところよく分からない。)
 おもしろいのは、数馬の獅子舞に棒使いが出てくることである。棒使いの演技は各地の獅子舞の始めの段階でよく行われることである。小留浦系統では、囃子方が出てくるが棒使いの型は披露されていないので、これも違いとしておもしろいことである。
 実は非常に興味深いことであるが、数馬の笛には2カ所ほど高水山(大丹波・下名栗含む)と似たメロディーが存在しているのである。  一つ目は前述した、入場の笛である。高水山の渡り拍子(入場の笛)に前半の部分が似ているのである。これは大丹波の須崎さんも同様に感じたと言われていた。話がそれるが、須崎さんら数名は前日から近くの旅館に投宿しており、たまたま宿の主人の案内でこの祭礼を見に来ていたとのことである。まさかここで合うとは思っても見なかったので、互いにびっくりしたのだが、「大丹波の道中笛に似ているところがある」と言っておられ、互いに同様な感想を持ったことを確認しあったわけである。
 もう一つは「太刀がかり」の獅子が刀をくわえてからのメロディーである。これも話がそれるが、数馬の保存会の方からいくつかの話を聞いた。獅子が刀をくわえてから笛が変わり、「この笛が実にいい笛だ」とのことであった。「ゆっくりとした笛の音にのって、獅子どうしが刀を見せ合う場面がとてもよい」との話であった。また、写真を撮るならここが一番の見せ場なので撮ってみたらどうかとも話された。
 どのようなものなのかと楽しみにしていたら、確かに獅子の口に刀を取り付けてから笛(曲)が変わった。そして、そのメロディーを聞いて少し驚いた。実は高水山の「太刀懸(白刃)」の笛 「♪こーれー見ーろー ほしかんべー …」のメロディーが含まれていたのである。これは、高水山で白刃の笛の音を真似して口ずさむメロディーだが、太刀使いが獅子に「刀が欲しいだろう」と見せびらかしたり、獅子どうしが「自分の刀の方がよいだろう」と互いに見せびらかす場面を象徴的にあらわすメロディーである。
 実は、これとよく似たメロディーは他でも聞いたことがある。それは沢井の獅子舞の「太刀狂い」のメロディーである。芸態から考えて、沢井の「太刀狂い」は高水山の「太刀懸」に相当する演目であると考えているが、数馬、沢井、高水山(大丹波・下名栗)の3カ所の「太刀懸(白刃)」のメロディーが互いによく似た笛であることは大変興味深い。同じ演目で、しかも違った獅子舞どうしで同様なメロディーがあるのは偶然なこととは思えないと感じている。この地方に広まっている「白刃」の演目に対する何か大切な成り立ちが隠されているようにも思える。

 一方、それ以外のメロディーはどうかと注意して聞いたところ、それ以外には高水山と似たメロディーはどこにも存在しなかった。

 出囃子の有無、棒使いの演技の有無、あるいは上記の一部のメロディーの有無等、小留浦系統の獅子舞にも謎がいくつかある。小留浦で失われたものと取り入れられたもの、数馬で失われたものと取り入れられたものを調べ、これがどのような歴史的意味があるのかも興味あるところである。まだ拝見したことはないが、伝承の中間にあると言われる沢又(藤倉)の獅子舞を調べることにより分かることがあるのかも知れない。

ささら摺りについて

高水山 ささら摺り 私が生家にいた頃のささら摺りは、9才〜12才くらいの少女がつとめていました。元祖の大丹波では男子がささら摺りを行っているので、高水山の場合、ずっと昔から女子だったのか、それとも男子だった時代があるのか興味あるところである。
 ※ ささら摺りの性別については、昔から女子が行ってきたということを、現在の最高齢の人に確認してきました。男子(男性)が行ったという話は聞いたこともないとのことです。しかし、その後の知見から、当初は男性が担当してきたと考えざるを得なくなりました。90歳代の古老で男性が担当するという話は聞いたことがないということは、ささら摺りの性別の変化は、少なくとも百年から百数十年前にさかのぼることになります。(場合によったら、下名栗に伝授したとき(約200年前)にはすでに女子だった可能性もあります。)
 ところで、子どもの頃同学年の女子から聞いた話しでは、当時「三拍子」のささら摺りの型が一部崩れてきたとのことで年配者の覚えていた昔の型に戻したとのことです。元に戻した部分は下名栗に伝えられるものと近いものだったようです。
※ささら摺りの花笠の水引幕には、写真のような紋(突起のある丸に桔梗状の紋章)が白く抜いてあります。同じ紋はささら摺りが着る振り袖の両胸・両袖・背中の五カ所にも入っています。この紋は何らかの意味があるものだと考えられるが今のところ不明である。現地の方で知っている人がいるかも知れません。

舞う場所について

高水山の獅子舞については、現在は高水山の山頂付近の常福院(祭礼当日)とふもとの常福院(前日のそろい)だけですが、昔は違う場所で行われていた可能性があります。
 ※大丹波から伝授されて20年間ほどは、高水山で獅子を舞うことが許されなかったとのことです。当時は高水山ではなく、大照院(”だいしょいん”又は”だいしょういん”と読み、一般には”大聖院”と表記するのかも知れません。)と行屋(極指という地区にある場所)というところで舞われていたとのことです。(保存会 川口氏より)
大丹波から師匠を招いて獅子舞を伝習した大照院で舞われたことは当然のことですが、行屋というところにしても上成木の上の方に位置し、大丹波との往来に使う名坂峠(なざかとうげ)にも近く納得のいくところです。現在のように高水山で獅子舞が行われるようになったのは、安永4年(西暦1775年)からと推定されますが、それ以降、絶えることなくずっと4月に祭礼が行われてきています。また、昔は4月7・8・9日の3日間にわたって獅子舞が行われていたと聞いています。
 なお、高水山の獅子舞は、かつては門外不出で地区から出て演ずることは固く禁じられてきたとのことです。「日本獅子舞之由来」とともにいくつかの決まり事を記した文書も現存しており、これらに書かれていることや昔からの約束事は近年まで固く遵守されてきました。 獅子 議定書巻末 獅子 議定書全体
 写真は大丹波側から受け取った議定書で原典の複製品ですが保存会の川口氏に見せていただいたものです。内容は高水山から下名栗に授与したもの(既出の御獅子一件議定書之事)とほぼ同じ文面だと考えられます。ただし、時代がさかのぼるので年号は当然のこと、人の名も違います。(巻末には、武州三田領大丹波村 御獅子太祖 福嶋喜兵衛 後傳 福嶋半兵衛と二名の名前が記され、上成木大沢入村の方は大太夫 加藤佐平次殿 加藤助右衛門殿と書かれています。前述の下名栗に渡したものの方は上成木大沢入村は濱名孫右衛門と川口清蔵の二名の名前が記され、下名栗側は若衆代 栄蔵殿 村役人代 伊之助殿 世話人 八五郎殿と三名の名前が記されています。)
 大丹波の獅子舞については、明治5年までは惣岳山にある青木神社で行われていたとのことです。高水山も山頂にある常福院不動堂で行われているので、神社と寺(※この二つが明確に区別されていたかどうかは分からないが)との違いはあるにしても、山で行うという面で共通性があったことになります。)


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