山や峠を越えて伝承される獅子舞
大丹波・上成木・名栗の地図
小沢峠の頂上
(現在は通る人もほとんどいない)
名坂峠 上成木側の入り口
奥多摩・青梅・埼玉地図      小沢峠の頂上 名坂峠の上成木側入り口
                     

 子どもの頃、大丹波から獅子舞が伝えられたと聞いて、まるでピンとこなかった。それもそのはず、大丹波に行ったことがなかったし、そもそも大丹波というところを知らなかったからである。小さい頃は成木の道を奥へ奥へとさかのぼると行き止まりになってしまい、その先に(山の向こう側に)他の集落があるとは思いもよらなかったのである。少し大きくなってから大丹波を知り地図を見てその近さに驚いたのであるが、当時は大丹波と成木を結ぶ名坂峠(なざかとうげ)が通行不能(※)であり、子どもたちの意識の中にない道であったからである。
(※地元の人たちの働きかけにより、東京都森林組合の委託事業として、平成16年10月末に高水三山ハイキング道(関東ふれあいの道)として道が整備されたとのことです。)LINK常盤むかし話 編集後記
 現在の人々は、町中へあるいは東京へと目が向いており、一山越えた隣の山里にはほとんど関心がない。
 これは、大丹波の人たちにとっても同様であろう。当地の人々にとっても、成木に来るという発想自体が無いと思われるが、たとえ来たとしても東京方面からより遠ざかる山奥に来ると言うことで、現在では何のメリットもないといえる。 これが、私たちの現在の認識なのである。

 しかし、数百年も前ならば、相当違う感覚であったことは想像に難くない。江戸時代の初期には、成木で産出される石灰が江戸城の白壁に使われ、かなりの活況を呈していた。この幕府御用の石灰輸送のために整備されたのが青梅街道であり、当時は成木街道と呼ばれていた。したがって、採掘を始め石灰焼き等でかなり人手が必要だった時期もあったはずで、大丹波からも応援の人達が来ていた可能性もある。
獅子舞が伝えられた明和5年には、この産業が多少衰微していたかも知れないが、それでも名坂峠を越えれば互いに隣村である。山仕事を通して人の往来もかなり頻繁であったろう。配偶者を迎えるなど村人同士のつながりもかなりあったのではないだろうか。また、獅子舞が伝えられたという明和5年は宝暦箱訴事件のすぐ後である。当時の人達が互いに親しい間柄で事件の苦労をともにして連帯感もあった可能性もある。そう考えると、獅子舞を伝授するという素地が充分あったと思える。

 成木と名栗では東京都と埼玉県の違いはあるが、現在でも交流のようすがある。これは東京西部と埼玉の秩父方面を結ぶ重要な道路として、小沢(こさわ)トンネルが通じており、往来が簡単なこともある。トンネルが通ずる前は小沢峠(こさわとうげ)という山道であったが、実はこれが鎌倉古道で秩父方面の武将達が鎌倉との往来に使っていた道なのである。源平時代の武将である畠山重忠もこの道を通り高水山に参拝していたはずである。
 今となっては人もほとんど通らないこの山道からは想像できないが、この小沢峠の古道はかつては今以上に大切な道路であった。したがって、東京と埼玉に分かれる前の武蔵国の時代、山で隔てられてはいたものの二つの村は互いに身近な隣村という感覚がかなりあったはずである。私の生家の昔からの親戚も名栗や飯能に数軒ある。獅子舞を伝える素地は当時から充分あったと考えることができよう。
※獅子舞が伝えられた頃は、上成木のこのあたりを大沢入(おおぞうり)と呼んでいたそうである。
LINK常盤むかし話 ……名坂峠、小沢峠、畠山重忠等については、成木7丁目自治会・常盤むかし話懇談会がまとめた「常盤むかし話」にも一部出ています。

近代交通が発達する以前の心理的距離感

 現在のような交通機関が発達する以前においては、現在とは多少異なる交流があり、心理的距離感についても異なったものであろうと推測します。
 本来、人々の交流は行き来しやすい人々の間で行われるのが自然である。したがって、この地方では川の流域ごとに大きな交流があり、大きな道路も川筋に沿ってできている。人々の交通感覚は道を川に例えれば、支流の小さな川がだんだんと合流して大きい川となり、やがて大河となって都会に至るような感覚であると思われ、(※下記)違う支流(山里)に行くにはいったん川を下って大きい川に入った後、この川をさかのぼったりあるいは下ったりして違う支流に入らねばならず、時間的にはともかく心理的にかなり面倒なことである。日々の生活で大きなウェイトを占める職場や学校についても下流の大きな町にある場合が多く、隣の山里に目を向ける必要性もさほど無いという状況ではないだろうか。これが現在の心理的距離感である。
 しかし、上成木や大丹波をはじめとした山間部の集落では車を使うことができなかった時代まで、山を越えて隣の山里に行くことは日常茶飯事のことだったのではないかと思われる。歩くことが当たり前だった時代では、一山越えることはそれほど難儀なことではなく、隣の山里との交流は生活の上でも不可欠だったはずである。事実、大丹波や名栗・飯能に親戚をもつ家は現在でも大変多い。したがって、当時の人達の山間部の交通感覚は山が障壁になっておらず、もっといろいろな方向に開けた感覚であったような気がする。生活物資なども互いの村々でかなり融通しあっていたのではないだろうか。獅子舞の他地区への伝承は文化の伝播だけでなく、昔の人達の交流のようすを表しているものであり、大丹波・上成木・名栗以外にも奥多摩と秩父、檜原あるいは山梨など、たくさんの例があると思われます。
 峠道の両ふもとに位置する二つの集落は、交通機関も行政区も異なることがほとんどで、現在の直接的な交流は非常に少ないと思われるが、両方の地域で共通した苗字が散見されることも多く、とても興味深い。これは上成木と大丹波にも、そして現在私が住んでいる近くにもその例が見られます。
(※2014/01/01)明治以降の東京一極集中化の中で、この近辺の山沿いの地では主たる交通機関が町場方面へ、東京方面へと整備されてきた。ちょうど、山と山にはさまれたいくつもの谷川どうしが合流しあい、やがて東京湾にそそぐようなイメージである。逆に東京から見た場合には各地に向かって鉄道や道路が放射状に延び、やがて分岐していくイメージである。
 このような交通機関の発達は、社会の変化や生活様式の変化に伴う必然であったと思われる。
大丹波 大太夫

[伝授された当時、獅子舞はどう受けとめられていたか](推測)

 私たち現代人が三匹獅子舞(風流系獅子舞)を見ると、「郷土にマッチした極めて日本的な郷土芸能」とか「古くからの古典的な民俗芸能」と認識すると思いますが、獅子舞が伝授された当時の人々にとっては180度違った感覚だったのではないかという気がします。
当時の人達にとって、獅子舞は日本的なものなどではなく、極めて斬新なものであったのではないかと思います。獅子は外国の超自然的な霊獣として認識されていたと思いますが、これを被って舞う獅子舞は当時の人たちにとって、異国の薫りをもたらす非常に新しいものだったのではないでしょうか。日本獅子舞之由来という秘伝書にも南天竺とか紫宸殿とかの遙か離れた場所や地名が出てきますが、最初に三匹獅子舞をひろめた人達もこのような感覚を一つの売りにしていたのではないかと思います。実際には、三匹獅子舞はほとんど東国に限定された民俗芸能であったわけですが、当時としてはこのような異国情緒を伴う獅子舞は極めてインパクトのある新しい芸能であり、だからこそ多大なエネルギーを要する伝授が可能になり各地にひろまっていったのであろう。
 世の中が落ち着きいろいろな面で余裕が出てきた人たちは、近隣で行われている獅子舞を羨ましくもあこがれの目で眺め、自分たちの地でも是非やってみたいと強く思ったのではないでしょうか。このような気持ちの高まりと、様々な諸条件の整備が相まったなかで、獅子舞の伝授が行われて行ったのではないかと思います。 (以上は個人の推測であり、認識違いかも知れません。もっと違った見方もできるかも知れません。)
 ※ 現在ではどのように獅子舞を受け止め、これを演じているのでしょうか。これについては、実際に確かめることができますのでいずれかの機会に調べてみたいと思います。

 各地の獅子舞を見て

 

 昨年から今年にかけて、時間のとれる範囲で各地の獅子舞を見学してきた。内訳は西多摩地方のものが9カ所、埼玉県が4カ所、千葉県が1カ所、神奈川県が5カ所である。その結果、次の二つのことに気がついた。
 一つ目は考えてみれば当然のことであるが、芸態の違いは地理的な近さにある程度関係しそうだということである。遠く離れた千葉県北部のある獅子舞は、高水山の獅子舞と演目も芸態もまったくと言っていいほど異なっていた。ささら摺りがおらず、衣裳も獅子頭も相当隔たっており、かなり系統が異なる獅子舞であろうことがうかがわれた。  地理的に少し近くなる埼玉県川越市のものは、演目や芸態はかなり異なるものの、ささら摺りがおり、前記の千葉県の獅子舞よりは多少近そうな気がした。
 地理的に近い西多摩地方のものは、当然のことだがそれぞれの間で近い部分(※ 下記1)も感じられた。しかし、舞い方や笛は地区によってかなり違い、それぞれの獅子舞ごとに理想とする型があるように思われた。獅子舞が違っていても、やはりベテランと思われる人の舞いはどの地区でも見応えがあるものである。
 もう一つ気がついたことは現地の人たちの獅子舞に対する思いである。そしてそれは、面白いことにどこの地区でもほぼ共通しており、どこでも「自分たちの獅子舞が一番良い」と思い込んでいるように思われることである。また、そう言う割には、他地区の獅子舞をあまり見学したことがないとも言っていた。
 他の獅子舞を見ていないから、井の中の何かのように自分たちのが一番だと思い込むのかも知れないが、実は他地区の獅子舞をいろいろ見たとしても、自分たちの獅子舞が一番だと感じるのが本当のところかも知れない。
 今年7月のある獅子舞で、たまたま横に座られた方と話をする機会があった。その方は「獅子舞がさかんな地区の出身で、獅子舞に興味がありいろいろな獅子舞を見て回っている」という方であった。私とまったく同じ動機だと思ったのであるが、その方が言われるには、「いろいろ見ても、何といっても自分が子どもの頃から見てきた獅子舞が一番だ」と言われたことである。私自身も、いろいろ見ても「高水山の獅子舞以上のものは、いまだに見あたらない」のである。やはり子どもの頃から見てきた獅子舞は、笛や舞いが頭の中に入っており、そのことによる影響は大きいものである。
 獅子舞などの伝統芸能・郷土芸能は地域の文化である。運動競技と違って文化には順位はつけられないものである。それぞれが誇りを持ち次代にしっかり受け継ぐことが大切なことである。そういう意味で、地域の人たちが自分たちの獅子舞にそれぞれ誇りと愛着を持つことは大切なことであると思える。
 7月に行われたある地区の獅子舞で少し残念だったことは、地域の子どもたちがあまり見に来ていないことであった。このことは、先ほどの方も指摘されていたことであるが、子どもたちが地域の伝統文化・伝統芸能に深くかかわり、その文化をしっかりと継承できるよう地域の大人たちが努力して行くことが大切なことであろう。

 ※1 西多摩地方の獅子舞はいくつかの系統に分けられ、それぞれの系統ごとに違いはあるのだが、それでも少しずつ似ている箇所がある。笛でいえば、檜原村数馬の舞庭への入場の笛は、高水山の「渡り拍子(入場の笛)」のメロディーに前半の部分がよく似ている。また、沢井の「太刀狂い」のメロディーは高水山の「太刀懸り(白刃)」のメロディーとかなり近い部分がある。今年見学した範囲では、あきる野市山田の獅子舞の中にも(同一のメロディーはないものの)高水山と似た雰囲気の笛があった。
 日原の獅子舞は常に女獅子が先導すると言われるが、高水山の場合も「御幣懸り」「竿懸り」では女獅子が先導して舞うので、この面で両者は似ていなくもない。
 武蔵国の山間部に伝えられる獅子舞、恐らく日本獅子舞来由(日本獅子舞之由来)という秘伝書を有している獅子舞同士は、古い時代において共通した祖を持つか、あるいはかなり近い関係にあったのだろうと推測します。


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