各年度の祭礼より
(2010/09/26) 大丹波青木神社獅子舞350周年記念祭は一番下に記しています。

平成18年高水山祭礼より

 昨年に引き続き今年も高水山での祭礼を見学した。この二度の見学を通して、毎年欠かさず見学していた頃(約三十年前)と較べていくつかの違いがあることに気がついた。また、当日、話をすることができた高水山の保存会の人や大丹波の保存会の人との話を通して、いくつか思うところがあった。
 差し障りがある可能性もあるが、感じたことや思ったことを正直に書いて行きたい。(何かありましたらご一報下さい)

大丹波との所作の違い

(2006/05/14)

当日、偶然にも大丹波の保存会の方と話をする機会に恵まれた。どこかでお会いしたことがあると感じていたのだが、どちらからともなく話をしてみて、大丹波の責任ある立場の方でいらっしゃることが分かった。長い間獅子の指導をし、解説もされてこられ、狂い方の違いをはじめいろいろなことを感じておられるようであった。

(1)三拍子 バチ打ちの指導について

大丹波 三拍子 バチ打ち 高水山 三拍子 バチ打ち 下名栗 三拍子 バチ打ち
大丹波 三拍子 バチ打ち 高水山 三拍子 バチ打ち 下名栗 三拍子 バチ打ち

 大丹波では獅子がバチを打つときは腕を真上にぴんと上げ、伸びあがって高く打つように指導しているとのことである。背筋を伸ばし、踵を上げてべた足にならないように指導しているとのことである。(※ 御幣掛かりで、大太夫が御幣を拝む場面なども、腕先をぴんと伸ばして祈願している。)
 高水山や下名栗でこの部分をどのように指導しているか聞いたことがないので分からないが、所作の違いを見みると指導のポイントが異なるはずである。
 高水山では打つ方向は真上で共通しているが、獅子は伸びあがっておらず足裏全体が地面から離れることはない。下名栗でも獅子が伸びあがることはないが、一番の違いは打つ方向が真上ではなくやや前方になることである。そして、バチを打ち鳴らすとき左手はほとんど止めており、右手だけを動かして打っているように見えることである。

(2)竿懸 竿の持ち方の指導

大丹波 竿掛かり 高水山 竿懸 下名栗 棹懸り
大丹波 竿掛かり 高水山 竿懸 下名栗 棹懸り

 大丹波では獅子の動きによって竿が上がったりしないよう、竿を支える人に指導しているとのことである。獅子が低い姿勢のままで竿を渡りきるように、しっかり竿を押さえているそうである。
高水山では竿を押さえてはいるが、ある程度獅子の動きにあわせている。というより、獅子と駆け引きしながら竿を支えている。獅子が竿を持ち上げたり低く押さえられたりして、上下に波打つように竿を渡ることになる。大丹波、高水山で違いはあるが、どちらが良いとも言えないものであり、それぞれに見所があり良さをもっているように思われる。

(3)太鼓の打ち方と腕の動き

 自分が以前から感じていた太鼓を打つときの腕の動きを言葉にしてみたい。すでに【獅子舞の変容】でも書いているように太鼓の打ち方は三カ所で少しずつ違う。大丹波では左右の打つ回数はほぼ同数であるが、高水山と下名栗では右手で打つ回数の方が左手で打つ回数より多い。このことと一部関連しているかと思われるが、腕の動きが三カ所でかなり違う。
 大丹波では両方の腕がそれぞれ弧を描いて振られており、全体としては8の字をかくように動いているように見える。下名栗ではササコという型も関係していると思われるが、バチを肩に担ぐことが多く、腕は上下方向(垂直方向)に振られることがよく見られる。高水山ではバチを顎のあたりに引き寄せてから打つようなところがよく見られる。

衣装や用具について

(2006/05/03)

 衣装面では、現在は獅子が腰に黒絞りの三尺をしめているが、昔は三尺はしめていなかったように思う。下衣のカルサン(タッツケ袴)については、20年〜30年前に作りかえたようである。以前のものとまったく同じ柄(唐草模様)であるが、まだ新しいためか茶色の色が前のものより若干濃く感じられる。また、ひざ上の部分のふくらみが以前のものより大きいのではないかという気がしている。刀を欲しがる獅子
 道化がかぶる面については、現在は高水山伝来の道化面をつけることはない。この面は非常に古色そうぜんとしており塗りもはげており、現代人が見ると奇異な感じがして時代にあわなくなってしまっているのかも知れない。獅子頭については光沢がだいぶ無くなってきてしまっているが、塗り替えには大変な金額がかかるので仕方のないことであろう。
(2008/04/13 追記)
獅子頭のあごの下に取り付ける水引き幕(鶴丸紋の図柄)と獅子のたてがみに相当する部分の布を新調したとのことである。 布の材質も図柄の大きさも以前のものとまったく同一のものである。

 

獅子頭の羽根について

 高水山の獅子頭の羽根は消耗品である。太刀懸(白刃)の演目で祭礼のたびに少しずつ切り落とされるからである。羽根は購入するとかなり高価で、一枚数千円もするとのことである。このために保存会の川口氏は自宅で鶏を飼っていたそうである。普通の鶏ではなく特別な品種で、雛もかなり高いそうである。一羽あたり一年間でたったの二枚しか羽がとれない(尾羽の左右からそれぞれ一本ずつしか採れない)とのことで、高価なわけである。安価で手に入れるには、白い羽根を黒色に染めたものが専門の祭り道具屋で売っているそうである。しかし、白羽を黒色に染めたものは品質が劣るため高水山では使ってないとのことである。本来の黒羽は光線によって緑色や紫色に輝き深い光沢があるそうだが、染めたものではこのような色つやがないそうである。

庭場の広さについて

(2006/05/01)

 高水山の舞庭は昔より狭くなってしまった。自分が子どのもの頃にはもっと庭場が広かった。理由は庭の周りを取り囲んでいる植栽にある。以前は縁側に腰掛けたり一階の座敷からも獅子舞を見学できたのであったが、現在は庫裡の前を被う樹木等により建物側から見学しずらくなってしまった。見学する立場から見ても残念なことである。 庫裡前の植栽
 また、舞う方向(不動堂から門にかけての方向)も不動堂側の植物と門側の生け垣のために短くなってしまっている。このため、狂うときの足遣いが少し余りがちで歩幅を小さく狂わざるを得ないところもいくつかあるように感じた。幼なじみの笛吹の方に聞いたときも、このことを問題と考えており、「庭が昔より狭くなってしまい、特に真剣を使う白刃では役者の人がかわいそうだ」と言っていた。
 庭場が小さくなってしまったことについては、大丹波の保存会の人も言っておられた。「子どもの頃、高水山に来たときには、今見ているあたりまで獅子が狂い込んでいたのに、庭が狭くなってしまい残念だ」と何回も言っておられた。
 庭場の形や大きさは芸態のあり方にも影響をおよぼすことなので、僭越であることは承知であるがあえて記させていただきました。

麓の常福院の庭も植栽等のために昔より狭くなってしまっている。そのため、ここで行う揃い(リハーサル)でも、そのことによる影響が出ている。本来、白刃の本舞では中央に花笠に囲まれた女獅子が位置して、その両側で獅子と太刀遣いが狂うものである。しかし、平成22年の揃いの白刃(太刀懸)では真剣をつかうことによる危険性を避けるためもあってか、花笠と女獅子が一列に並んでいた。また、チラシになっても獅子が庭場を大きくはみ出て自由に舞うことができにくくなっている。

継承への意気込みについて

 少子化や人口減から継承は厳しいと聞くが、それでも保存会の人たちの努力は大変なものであると考える。子どもたちが参加しやすい体制もつくりつつあるようで、昔と違い笛吹や露払いなども小学生高学年くらいから参加できるようになっている。
 ササラ摺りは少子化で危機的な状況にあったようだが、地域を拡大して6丁目の少女たちにも参加をお願いしているとの事である。一時、ササラの音を出すだけという少女もいたが、現在は足の左右の動きもきちんとできており、デハでの前後の移動もできている。保存会の人たちが昔からの伝統をきちんと教えているようである。
 また、高水山の獅子舞は、一つ一つの型を大切に伝承してきたと思え、それを大切にする伝統が根付いているように思われる。後継者不足でベテランの人たちが引退できないという理由も考えられるが、非常に質の高い舞を今でも見ることができる。  
 全般的に高水山の獅子舞関係者は、自分たちが先祖から受け継いでいる獅子舞に大きな自信と誇りを持っていると思われる。

見学しやすさ

 林道(なちゃぎり林道)が高水山常福院まで延びており、大変見学しやすくなった。(ただし、林道は急坂で狭い道であり、路肩が崩れているところもあるので注意しなければならない。)以前は60分近くも山道を登らねばならなかったので大変だったが、現在は遠方の方々も見学しやすくなった。下山の時間をさほど気にすることもなくなっているので、最後の「太刀懸(白刃)」まで見学しやすくなった。全部の庭(演目)を通して見た人は、高水山の獅子舞がどのようなものかを理解できたのではないかと思う。
 ただし、昔のように山道を苦労して登るのと楽に車で登るのでは、見る側の思い入れが少し違うかも知れないとも考える。

大丹波で行われた獅子舞の大改革とその時期

(2006/06/01)

 当日、高水山の祭礼に来られていた大丹波の保存会の方からとても気になる話を2つ伺った。その2つの話は自分の中で理解ができず、今まで心に留めながらも放置してきたことである。しかし、自分なりの解釈ができたので可能性の一つということでここに書いてみたい。
 話をされた方は、大丹波獅子舞保存会の責任ある立場の方で、大丹波の獅子舞の歴史について大変造詣が深く、昔からの言い伝えをたくさん知っておられる方であった。

大丹波 白羽

気になった話の内容は次の二つである。
(1) 「昔は祭礼の時、大丹波側と高水山側で一タチ(一演目)ごとに交代で狂った(演じた)」
(2) 「昔は12タチ(12演目)の獅子舞があった」
両方の話はともに俄には信じがたい面があった。最大の理由は、上成木高水山側でこれらのことを今まで聞いたことがなかったからである。そして、二百数十年以上も前のことが伝承とはいえ正しい事実としてとらえてよいのかという観点からである。
 しかし、いろいろなことを総合して考えると、次のようなことも考えられるのではないかと思うようになった。

 (1) 一つ目の話 「昔は祭礼の時、大丹波側と高水山側で一タチ(演目のこと)ごとに交代で狂った(演じた)」は、以外に短期間で自分なりの解釈ができた。結論を言うと、これは十分ありえる話である。
 昔という言葉をいつの時代に設定するかという問題もあるが、獅子舞伝習期間(1768年からのしばらくの年月)においては、以前、【獅子舞の改変期】にも書いたように1768年6月7月の伝習期間だけでは獅子舞を完全習得できずに、その後の祭礼での相互訪問によって伝受を完璧にしていったという可能性も十分考えられるのである。伝受初期の頃は、伝習している立場の高水山側と師匠の大丹波側で同じ演目を狂って、伝受をしっかりしたものにしようとした可能性は十分ありえる。
 もう少し後の時代と考えたとしても理解は十分可能である。現在でもそれぞれの祭礼の時に、代表の人が訪問しあっているが、友好という意味合いもあり互いの獅子舞を交互に披露しあった可能性はある。もしかしたら、ずっと昔は獅子舞が3日間に渡って行われたという高水山側の記憶もそのことに関係している可能性がある。
 (※交互に狂った(演じた)ことについては、自分が聞いたことがないだけであって上成木のどこかの家には言い伝えが残っているのかも知れない。もし、上成木側でも同じ記憶が残っているならば事実としてとらえて間違いないであろう。
 また、大丹波では昔は3月15日と9月1日の年2回獅子舞が行われていたとも聞く。3月15日にも獅子舞を行っていたのならば、4月8日の高水山の獅子舞と日にちが近いこともあり、大丹波側としても獅子舞を披露しやすかったはずである。)

(2) 二つ目の話 「昔は12タチ(12演目)の獅子舞があった」が、どう受け取ったら良いのか分からず、ずっと理解できなかったことである。昔は12タチ(演目)あったらしいという話は2004年に大丹波を訪れたときにも現地の他の方から聞いたが、内心それは絶対違うと思っていたことであった。しかし、今回もその話を聞き、もう一度考えてみる気になった。
 平成18年の高水山祭礼で大丹波の保存会の方が「昔は12タチ(演目)あった」と話されたとき、私は「上成木に伝わる當村獅子舞縁起書には6演目(宮詣りを別とすると7演目)を伝習と書いてあるので、大丹波の獅子舞も当時から現行と同じ6演目(7演目)だったはずだ」と答えた。しかし、その方は「いや、昔は12タチ(12演目)あった」と自信を持ってきっぱり否定したのであった。
 高水山側では伝受された当初から現在と同じ6演目(宮詣りを別とすれば7演目)であることが古文書から証明されている。しかし、場所を大丹波に限定し、時代をはるかさかのぼれば、12タチ(演目)あってもおかしくはないことに気がついた。が、そこには、演じられることなく現在まで伝えられなかった演目についての合理的な説明が見つけられなくてはならない。
 思うに、高水山に伝受した頃やその少し前の時代は、恐らく獅子舞が非常な熱意で演じられていた時代であったように思う。 物質的に豊かであったとは思えないが、少なくとも平和な時代が長らく続き、自分たちの楽しみの面や地域としてのまとまりを確認しあう面でも、近隣で目にした芸能を自分たちもやってみたいと思ったのではないだろうか。上成木の人々も大丹波の獅子舞をあこがれの眼差しで見つめ、羨ましく思ったからこそ伝受の願い入れをしたはずである。したがって、いくつかの演目が失われてしまった理由は決して後ろ向きのものではないように思う。そこには、恐らく大変な熱意による獅子舞の一大改革が関係していた可能性があるのかも知れないと考えるようになった。
 大丹波の先人が、それまでの獅子舞を大改革し、ストーリー性に富んだ新しい魅力的な獅子舞を作っていったとき、内容が複雑になり規模も大きなものにならざるを得なかったはずである。現在の大丹波の獅子舞は、早朝7時から始まりすべて終了するのは午後6時頃である。一つの演目が短くても40分程度を要し、長いものでは2時間を要する。終日行っても6演目(宮詣りを入れると7演目)しか物理的にできないのである。時間の関係や必要な人員等の関係からどうしても演目を精選しなければならなかったはずである。
 結局、宮詣りと大幅に改良された6演目を残し、旧来からの演目は演じられなくなり忘れ去られた可能性が高い。そして、その獅子舞が高水山に伝えられたのであろう。
 (※ 12演目を原形とする獅子舞は、西多摩地方に広く分布している。大丹波・高水山・下名栗系統の獅子舞も、この獅子舞から発展していったものであろう。)

 大丹波の獅子舞は他の奥多摩地方の獅子舞より内容が複雑でありストーリー性に富んだ規模の大きい獅子舞である。 個人的に推測すると、大丹波で獅子舞の改革が行われた時期は1600年代の後期から1700年代の前半であろう。この頃に非常に才能のある人(人たち)が現れ、12演目あったそれまでの獅子舞のいくつかに大幅な改良を加え、現行の6演目を創作したのであろう。
 それまでの12演目の獅子舞は、日本獅子舞之由来にあらわれる山崎角太夫という人物を家元とした流派の獅子舞であり、福嶌某という人物がこの獅子舞の成立に大きな役割を果たしたと個人的には考える。
 なお、話は少しずれるが、「下名栗諏訪神社の獅子舞」冊子によると、下名栗でも現行の獅子舞が行われる以前にも(古い)獅子舞があったと推定しているそうである。もしそれが事実なら、大局的に見て、それまでの獅子舞が新しい大丹波・高水山系統の獅子舞にとってかわられたという見方ができるであろう。(実際には、高水山から伝受される頃にはすでに旧来の獅子舞が演じられなくなっていたのであろうとは思うが…)
 いずれにしてもそこには当時の人たちの自分たちが演じる芸能に対する価値観があらわれているように思う。

獅子舞の系譜と相互の関係

(2006/08/29 & 2006/09/05)

西多摩地方の獅子舞をいくつか見るうちに、上記のことを一部訂正をしなければならないと考えるようになってきた。それは、大丹波の獅子舞の成り立ちと他の奥多摩地方の獅子舞の関係である。
 以前は、奥多摩地方に広く伝わる小留浦・大氷川(ことずら・おおひかわ)系統の獅子舞の原形となった古い獅子舞(仮想的なもの)を大幅に改革して大丹波の獅子舞が出来上がったと考えていたが、どうも小留浦(ことずら)系統の獅子舞と大丹波系統の獅子舞は、もっとずっと古くから別系統の獅子舞だったという気がしてきた。というのは、演目の名前は共通のものがいくつもあるが、演式・構成がかなり異なる(※1)うえに、笛のメロディーも相当違うからである。演式の違いは演出者の意向で短期間にかなり変化する可能性はあるが、笛は短期間でそんなに変化するものではない。私の個人的な考えでは、笛の節は昔からのメロディーを引き継ぐことが多く(※2)、笛が違うということはもともと別系統の獅子舞であったと考えた方が妥当であると思う。たとえ大丹波で新たに18種もの曲を作曲したとしても、小留浦系統の獅子舞の影響があるなら、もう少し似た旋律がどの演目かに必ずあらわれるはずである。小留浦の退場のときの笛が、聞きようによっては大丹波・高水山のチラシの笛にほんの一部似ていなくもないが、たまたま似た旋律が含まれているくらいと考えた方がよいくらいであり、それ以外の笛(曲)はほとんど似ていなかった。
 笛の違いは演式の違い以上に系統の違いを証明するものであるように思われ、小留浦系統の獅子舞と大丹波の獅子舞は、近い系統の獅子舞とは言えない気がする。(ただし、より大きな目で見た場合には、西多摩地方の獅子舞は一つの大きなグループに入ることに違いはない)
 恐らく、青梅・奥多摩地方の獅子舞は、かなり古くから大丹波系統(含む高水山・下名栗)、小留浦系統(含む大氷川・棚沢・栃久保・原など)、境系統(含む川井)、日原系統(含む川野)、野上系統というように分かれていたのであろう。(もっといろいろな系統がありますが、実際に拝見し確認したものを書きました。)

(※1)小留浦系統の獅子舞は、演目の始めと終わりにハヤシ方が登場し獅子を囃すが、大丹波系統の獅子舞ではハヤシ方は登場しない。代わりに、大丹波系統では入場後に揃いの部分があり、その後はササラ(花笠)とともに庭場を大きく前後してから中央に位置しストーリーに入っていく。小留浦系統では出囃子やハヤシ方の演技もあり、演目の始めと終わりがとても華やかである。大丹波系統では出囃子もハヤシ方も無く、出だしの部分は華やかとは言えない。しかし、「太鼓揃え」の静から「デハ」の動への転換の仕方が見事であり、だんだん場を盛り上げていくような構成になっている。そして、演目の中身であるストーリーを舞いで巧みに表現するようになっている。全体的には、大丹波の獅子舞はハヤシ方や道化などの演技よりも獅子自体の舞いや演目のストーリー性を重要視しているように思われる。
 小留浦系統の獅子舞と大丹波の獅子舞では方向性がかなり異なり、小留浦系統の獅子舞から大丹波の獅子舞が派生したとは考えられない。

(※2)笛については時代を経ても変化がわりと少ないはずである。小留浦でも聞いたことであるが、大氷川と小留浦で舞いは違うところがあるが笛はほとんど変わらないそうである。実際、大氷川出身の方で小留浦に住むことになって、現在は小留浦の笛吹をしていらっしゃる方がおられます。ただし、大氷川の方が装飾的な音が多くなっているので、その部分を意識して(装飾的な音を出さないように)吹いているとのことです。
 大丹波・高水山・下名栗系統の獅子舞と小留浦・大氷川系統の獅子舞で、共通するメロディーがほとんど無かった。大丹波・高水山のチラシの笛に似た部分もほんの一部にあったが、全体的には笛がかなり違うと感じた。今年(平成18年)見た獅子舞の中では、あきる野市山田の獅子舞の方がずっと大丹波・高水山のメロディーに近い部分がたくさんあった。(正確に言うと、あきる野市の獅子舞と高水山の獅子舞で同一のメロディーはない。しかし、笛の雰囲気が小留浦系統よりも似ているのである。)したがって、小留浦系統のもととなった獅子舞(仮想的なもので実際にあったとは言えない)を改革して大丹波の獅子舞が出来上がったとは考えられない。大丹波の獅子舞と小留浦の獅子舞がどちらが古いか分からないが、かなり古くから別々に存在していた獅子舞であろう。日本獅子舞之由来という巻物の持つ意味と山崎角太夫という人物について解明が進めば、これらの獅子舞の関係がもう少し見えてくるかも知れない。


平成19年高水山祭礼より

平成19年高水山祭礼で聞いたこと  (2007/04/22)
・太鼓について
 保存会の川口氏に、太鼓の予備はあるのかと聞いたところ、「予備はなく3つだけだ」とのことであった。胴の部分が布でつつんであるため気づきにくいが、太鼓の形式は皮を鋲でとめるものでなく紐で締める形式のものだとのことである。この方式の太鼓の方が胴に穴をあける必要がないので胴が痛まず長い年月でも使えるようである。「昔の人はそのようなことも考えて、このような太鼓を使ってきたのだろう」と言っていた。ただ、皮の中央部が長年の使用で薄くなっているようで、響きが悪くなっているとも言っていた。 2階からの写真
 「太鼓の皮は虎の皮を使っているそうだ」と子どもの頃少し年長の幼なじみが話していたが、これはちょっと信じられない話であろう。

・獅子頭について
 獅子頭の光沢がだいぶ無くなってきていると感じたので、塗り替えはするのかと聞いたところ、まだ塗り替えをする予定は無いとのことだった。
 興味深い話だが、塗り替えをする際には獅子頭の魂を抜いて塗りに出すと聞いた。獅子頭には魂が入っていると考えているそうである。そういえば、車を使って用具を運べるようになった現在でも、獅子頭だけは3つの木箱にそれぞれ納め、昔ながらに人力で上成木のふもとから大切に背負いあげている。

3カ所の保存会どうしの交流とその話題

以下はその場での話題であり、それぞれの保存会の総意に基づく見解ではありません。(問題の箇所がありましたら、ご連絡をお願いします。)

・今年の祭礼にも、大丹波(4名)と下名栗(2名)の保存会の代表の方々が来られ、2階の部屋で高水山の保存会長さんらといろいろな話をしておられた。少しの時間同席させていただいたが、どの地でもそれなりの課題があるようであった。
 大丹波では上成木よりも人口が多く、伝承面で何の心配もないのかと思っていたが、やはり役者の数は不足気味のようである。大丹波から外に出ていった方達にも応援してもらう必要性も生じ始めているとのことである。
 下名栗では保存会の人員が90名以上もおりかなり恵まれているが、それでも伝承面ではいろいろな課題があるとのことであった。 御幣懸一場面

・時代の変化にもう少し対応し、地域以外のいろいろな方々にもたくさん来てもらい、喜んで見てもらえる方策も必要ではないかという話もあった。
 演目と演目の間の準備の時間に帰られてしまうお客さんもいるので、この時間も引き留めておかれるような時間の使い方も考えられておられた。下名栗ではこの時間に、もう一つの郷土芸能のお囃子や飯能市内のいくつかの団体が出ているとのことであった。
 また、古文書類ももっとオープンにしてよいのではないかという話もあった。「見たら目がつぶれるなどと言っている時代ではないだろう」と話された方もおられた。

・今年の話題で一番興味深かったのは、「祭礼の時に3カ所が集まり、それぞれの獅子舞を演じてみたらどうか」という話題であった。保存会同士の一層の友好や活性化をはかる面でおおきな意義がある話であると思った。そして、まず第一回ができたとしたら、獅子舞の発祥地である大丹波でやったらいいのではないかということであった。
 もし、これが実現できたら実に面白いことである。そして非常に興味深い祭礼になることに間違いはない。しかし、実現にはかなり難しい問題もある。クリアしなければならないいくつかの課題があると思われるので次に記しておきたい。

 

3カ所の獅子舞を一緒に披露する際にクリアしなければならない問題点。
 ・まず、どの地でも早朝から夕方までかかる祭礼であるので時間的に非常に厳しいものがある。「三拍子」あたりの短い演目を一つだけ披露するとしても、新たに2カ所の獅子舞を入れ込むことになるので非常に厳しい日程になるであろう。
 ・大丹波と下名栗は祭礼日が重なることが多いが一週間のずれの年にはちょうど良いかも知れない。しかし、高水山側では夏場にも新たに練習期間を設ける必要が出てくるであろう。
 ・道具類は、その地で使っているものを借りてやればよいだろうとの話であったが、実際には、微妙に勝手が違うのかも知れない。獅子頭の形態、庭場の形状、太刀の長さや重さなど、いろいろなところが芸態にも影響しているのであろう。
(※下記)借りた衣装や道具では、本領が発揮できない可能性もある。
 それぞれの地から衣装や道具を運び込めば問題は簡単に解決しそうな気がするが、実際には大変な労力である上に祭礼後の片付けも考えると安易にはできないことである。

白刃の一場面 ※獅子頭の形状や刀の長さの違いでも芸態に違いが生じている可能性がある。例えば、高水山と下名栗では「白刃」で獅子の羽を切る場面が違う。これは獅子頭の形態と刀の長さの違いが関係しているかも知れない。高水山では獅子の追い返しの時に、獅子の頭髪すれすれに刀を振り抜き羽先を切っているが、下名栗では太刀使いと獅子が庭場を往復する中でなびいた羽先が刀に切り落とされるようになっている。高水山の獅子頭は竜頭形式で前後に長いが下名栗の獅子頭は短い。角の付き方の違いを含めて種々の形状の違いが羽を切る場面の違いとなっている可能性もある。

 今回のような保存会どうしの相互訪問は、数百年来続いてきたと思われる。その理由を考えると、それぞれの獅子舞が30年もの伝習期間を通して厳しく伝受された記憶が代々受け継がれてきたからであろう。
 伝習中には経済的な負担もかなりあったと思われる。師匠が上成木に来ている時の食事はもちろん、大丹波側に行って教わるときにも貴重な米を背負って行ったらしいと、それとなく双方で伝えられている。これは、当時の獅子舞の伝受がその負担以上の大きな価値を持つものとして認識されていたからであろう。
 また、日本獅子舞之由来や議定書についても、その古文書的な価値よりも免許皆伝の証として伝受されたという価値の方がはるかに高いと考える。そして、現在まで続くこの交流がこの系統の獅子舞の価値を大きく高めていると思われる。


大丹波青木神社獅子舞350周年記念祭(平成22年8月29日)

三カ所の獅子舞の共演  (2010/09/26記載)
 本年度(平成22年度)の大丹波青木神社の祭礼は獅子舞350周年記念祭ということで、高水山と下名栗の獅子舞が友情出演した。「三カ所の獅子舞が一同に会して、それぞれ披露してみたらどうか」という話題は、平成17年度の高水山祭礼で話題にのぼったが、実際にこんなに早く実現するとは思ってもみなかった。
 そういう面で今回の祭礼は、私にとって実に興味深く見ごたえのある祭礼であった。三カ所の獅子舞の特徴がよく分かり、それぞれの保存会の日頃の努力がうかがい知れる祭礼であった。
 次に、自分が感じたことの一部を記す。

高水山の三拍子 高水山三拍子の一場面
 今回の出演で一番大変だったのは高水山だったかも知れない。高水山では寒さの残る4月に祭礼が行われているので、今回のような夏の猛暑の中で演ずるのは大変だったのではないかと思う。まして、4月の祭礼からかなり間が空いてしまっているので、練習はもちろんいろいろな準備面でも苦労があったのではないかと思う。
 しかし、高水山三拍子の本来の姿(獅子を始めて4年目〜6年目の若者が担当する演目)を披露してくれて、とても良かった。そして、若い役者にしては舞いがとても上手であることに感心した。庭場が違うので戸惑うこともあったと思うが、ササラの少女達も難しい三拍子の役を立派にやってくれたと思う。

下名栗の三拍子
下名栗三拍子の一場面
 下名栗の獅子舞は、さすがに年間を通して練習しているというだけあって、とても見事な獅子舞を披露してくれた。特に、一週間ばかり前に祭礼が終わったばかりなので最高度の演技を披露してくれたと思う。下名栗の獅子舞も、出囃子やホウイ(高水山で言う道化)の出演など、下名栗の本来の形を披露してくれ、とても見ごたえがあった。 下名栗のホウイ

大丹波の三拍子 大丹波三拍子の太鼓揃え
 元祖の大丹波は、笛も舞いも古雅な格調高い三拍子である。笛のスピードは三カ所の中で一番ゆっくりであり、恐らく獅子舞創始期のテンポをもっともよく伝えているものと想像する。太鼓揃えに十分な時間をかけ、見るものの気持ちを少しずつ獅子舞に持って行き、デハでの静から動への導入がとても格調高い。最後のチラシが特に重要で、ここで獅子は観客の中に入り込み、最後の気力を振り絞って観客にもサービスをする。このチラシは、大丹波獅子舞の見どころの一つである。大丹波名物のチラシ 獅子が観客の中に飛び込む

大丹波・高水山・下名栗の獅子舞の違い
 今回の獅子舞は、私にとって最も好きな三カ所の獅子舞を同時に見るチャンスであり、とても楽しめた。それとともに、今まであまり気がつかなかったことに気づく良い機会であった。特に、ササラの違いは今まであまり気づかなかったが、かなりの違いがあることに改めて気がついた。
 今までも気づいていた、「舞いの型の違い」、「歌の唄い方の違い」、「上演の仕方の違い]、「笛の違い」その他多くの違いがより鮮明になった。
 全体的には大丹波→高水山→下名栗と伝承していったことがその芸態にもよく現れていたように思う。恐らく、高水山の獅子舞を知らずに、大丹波と下名栗の獅子舞だけを見た人がいたとしたら、この2つが同系統の獅子舞であると気づく人は少ないのかも知れない。改めてそんな感想を持った。

地域全体で盛り上げる獅子舞
 大丹波小学生獅子舞の太鼓揃え今回の獅子舞350周年記念祭を見て感じたことは、「どの地でも地域の人たちが獅子舞に大きな誇りを持ち、後継者育成にも積極的に取り組んでいる」ように見えたことである。また、この郷土芸能を以前より大きな視点でとらえるようになってきて、地域のまとまりや活性化に大いに貢献しているように感じられた。
以前は、ササラを除いて成人の男性だけが獅子舞に加わることができたので、このことは大きな変化である。
 高水山や下名栗では女性が笛吹きに加わり(下名栗では男子小学生も)、地域全体で取り組む郷土芸能となってきている。大丹波では今年で三年目と聞くが、小学生獅子舞も披露するようになった。女子小学生もササラとして出演するようになってきて、女子も獅子舞に加われる素地ができてきたように思われる。子どもたちも「獅子舞」とか「ささら」とか入ったTシャツを着ている子が多く、大人はもちろん子どもたちも自分たちの獅子舞に大きな誇りを持ち、地域全体で取り組んでいる様子がうかがわれた。
大丹波の小学生獅子舞の獅子頭や花笠等も地域の有志が作っており、大人たちが子どもたちの育ちや後継者作りに惜しみない援助をしている様子がうかがわれた。


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