補遺 高水山の獅子 |
年号(西暦)
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獅子舞関係 出来事や文書
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備 考
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明和5年
(1768年) |
・獅子舞伝授の願い入れ | ・武州三田領大丹波村に鎮守祭礼のための獅子舞伝授を願い入れた。 惣代2名(大指 淺見九郎右衛門、極指 加藤彦兵衛) |
明和5年6月以降
(1768年) |
・大丹波からの師匠入来
・滝之上の大照院にて獅子舞の伝習 ・伝授された演目は、「御幣」、「三拍子」、「妻獅子」、「花見」、「さを」、「白刃」の六庭(現行と同じ) |
・6月27日入来の師匠名(獅子 喜兵衛、笛 清之丞、歌 五郎左衛門、さヽら 太右衛門 )
・7月に入来の師匠名(榎戸弥平次、孫市、籐市、助右衛門、甚助、伊三郎) ・上成木大沢入村の弟子名 (獅子 淺見九郎右衛門、源七、加藤喜右衛門、幸助、小山重兵衛 笛 加藤彦兵衛、加藤多郎右衛門、濱名孫右衛門、濱名文左衛門、瀧嶋市右衛門、仁左衛門 さヽら 井上孫市、青木大次郎、中嶋金五郎、瀧嶋牛太郎、加藤万之助、加藤牛之助、加藤与七 歌 中嶋惣左衛門、阿部助右衛門、久右衛門) |
明和5年7月
(1768年) |
・文書「仲間法度之事」(T家) | ・獅子舞伝習中の約束事を示す文書 「仲間法度之事」 |
安永4年7月20日
(1775年) |
・文書「當村獅子舞縁起書」 (T家)
・この頃より、高水山で獅子舞を行うことが許されたと思われる。(※推定) |
・獅子舞が開始されたいきさつと人々の名前を子々孫々と伝えるために瀧嶋九郎兵衛が書いた書。(上記の内容を書いた文書 毎年4月8日に高水山祭礼の舞として獅子舞を行う旨も記されている。)「當村獅子舞縁起書」
この縁起書より、安永4年(1775年)もしくは安永5年(1776年)から、毎年4月8日(旧暦)に高水山で獅子舞が奉納されるようになったことが分かる。(これ以前は、伝習場所であった大照院(大聖院)と行屋(名坂峠の升ヶ滝の近くにある)で獅子舞が行われていたようである。)明治6年の新暦切り替え後も4月8日に祭礼を行っているので、現在では江戸時代よりおよそ一ヶ月ほど祭礼日が早まっていることになる。 |
寛政7年
(1795年) |
・免許皆伝
・文書「日本獅子舞之由来」(高水山常福院) |
・免許皆伝の証として「日本獅子舞之由来」という秘伝書が大丹波より伝来。 |
文化5年 ※推定
(1808年) |
・下名栗に伝習を開始 | |
文化11年正月
(1814年) |
・文書「御獅子一件儀定書之事」(大丹波から受け取ったもの A家) | ・大丹波 福嶋喜兵衛 福嶋半兵衛→上成木 加藤佐平次 加藤助右衛門 |
文政元年
(1818年) |
・青梅市八子谷(成木4丁目)に伝授 | ・後の時代に廃絶 獅子頭は牛頭天王神社に保存されている。 |
天保4年8月
(1833年) |
・文書「御獅子一件儀定書之事」 (H家) | ・T家→H家に巻物を譲渡した際の文書 |
天保13年8月
(1842年) |
・文書「 一札」(T家) | ・K家→T家の文書 「一札」 |
天保14年
(1843年) |
・下名栗免許皆伝
・下名栗に免許皆伝の証として「日本獅子舞之由来」および「御獅子一件儀定書之事」を伝える。 ・文書「儀定書一札之事」(下名栗から受け取ったもの K家) ・文書「御獅子一件儀定書之事」(下名栗から受け取ったもの K家) |
・「御獅子一件儀定書之事」 (H家) 天保十四癸卯年七月 上成木 濱名孫右衛門 川口清蔵→下名栗 栄蔵 伊之助 八五郎
・「儀定一札之事」 (H家) |
嘉永5年4月
(1852年) |
・文書「取替一札之事」(K家) | ・獅子舞伝授秘書の件の下書きと考えられる。 |
嘉永7年4月
(1854年) |
・文書「儀定一札之事」(T家) | |
安政4年7月
(1857年) |
・文書「獅子舞廼歌」(安政の歌本)(T家) | ・昭和の歌本とくらべ、ほんの少し歌の異同がある。 |
明治6年
(1873年) |
・旧暦から新暦への切り替え | ・新暦移行後も祭礼日を今までと同じ4月8日とした。しかし、季節的にはおよそ一ヶ月ほど早まることになった。 |
昭和42年頃より
(1967年) |
・祭礼日が4月8日から4月8日近くの 日曜日に変更 | ・社会情勢の変化にともない土曜日を揃い、翌日の日曜日を祭礼日とした。 |
昭和44年4月10日
(1969年) |
・NHK「ふるさとの歌祭り」に出演 演目は太刀懸(白刃) | ・ニュース等で紹介されたことは以前にも何度かあったが、初めて地区を出て獅子舞を披露した。 |
昭和45年6月3日
(1970年) |
・NHK「芸能百選」に出演 演目は三拍子 | ・この頃、民放でも紹介された。 |
昭和63年頃より
(1988年) |
・祭礼日を4月の第2日曜日に変更 | ・社会情勢の変化に対応。 |
平成5年頃より
(1993年) |
・ササラ摺りに一部男子が加わる。成木7丁目だけでなく6丁目の少女たちにも参加してもらう。 | ・近年の少子化による対応。 |
平成20年
(2008年) |
・ササラ摺りに数名 成木1丁目〜5丁目等の男女も加わる。
・笛吹にササラを引退した女性も加わる。 ・水引き幕等の新調。(図柄(鶴丸の紋)も大きさも従来と全く同じもの) |
・少子化への対応と地域の文化に対する理解・熱意。 |
平成23年
(2011年) |
・役者不足により「女獅子隠し」が上演できず | ・少子高齢化と社会情勢の影響(年度末・年度初めの会社・企業等の事情) |
平成26年
(2014年) |
・本祭礼も麓の常福院で行う
・ササラ摺りに市内全域からの希望者が参加 |
・2月の大雪による林道の一部崩壊に伴う安全措置のため。
・平成21年度より成木小学校の特認校制度により市内全域からの就学が可能になった。 |
平成30年
(2018年) |
・本祭礼を山上の不動堂前で行う
・高水山獅子舞250周年 |
・林道が復旧し本来の不動堂前で獅子舞を披露した。
・平成30年(2018年)は高水山獅子舞開始(1768年)から250年目を迎えた。 |
令和2年、令和3年、令和4年
(2020年、2021年、2022年) |
・新型コロナウイルス感染拡大を考慮し獅子舞奉納の中止
・当日は地元関係者による祈願祭を実施 |
・戦争中でも獅子舞を奉納してきたので極めて異例のことである |
令和5年 (2023年) |
・新型コロナが落ち着いてきたため獅子舞奉納を再開した。 | ・規模を縮小し、御幣懸、三拍子、白刃(太刀懸)の3庭の奉納 |
令和6年 (2024年) |
・規模を少し縮小したが、ほぼ例年通りの獅子舞奉納に戻した。 | ・女獅子隠の奉納を割愛した。
・四隅のササラ花の基本色をササラごとに変えて出演者を紹介するようにした。 |
祭礼を行うためには、いろいろな準備が必要である。ササラ摺りの花笠につける花や万灯につかう花、御幣懸りのワラ胴や御幣など様々なものを作ったり、幟旗を建てたりその他いろいろな手配をしなければならない。これらの準備は、前日のソロイ(ふもとの常福院で翌日の本番さながらに獅子舞を行う)の時、これと並行して氏子の人たちがほぼ一日がかりで行っていると思います。(私が子供の頃はそうでしたので、今でも同じだと思います)
また、消耗品は新たに作ったりする必要があると思われます。ワラジなどは購入していると思うが、ササラ摺りが使うササラなどは竹を加工し、数十年ごとに作り替えているのではないでしょうか。篠笛については、先祖から伝えられてきているものを使っている場合が多いと思いますが、古くて傷んでしまったり新たに参加した人などは購入しているのではないでしょうか。でも、数百年前の時代から祭り道具屋で購入したとは考えにくく、昔は自作したり笛作りが得意な人が作っていたのではないかとも考えられます。篠笛を作ることは難しいことなのか興味があり、今回自作してみました。
LINK 篠笛を自作する
(1)獅子の衣裳
高水山の獅子舞衣裳は、上衣は紺無地で下衣は茶地に細かい唐草模様を白く抜いたタッツケである。大丹波と下名栗は上下共生地で紺地に細かい唐草模様を白く抜いたものである。(正確に言うと、現在の下名栗では六角形のデザインを基調とした衣装もある。)
したがって、唐草模様という面で3カ所は共通しているものの、色については高水山だけが上下の色が異なるツートンカラーという違いがある。衣裳は消耗品であり、数十年ごとに作り替えられるので、昔の衣裳がどのようなものであったかは今となっては分からないが、齢97になる父に以前聞いたところ、昔も今と同じ衣裳であったとのことで、それ以前に違う衣裳であったという話は曾祖父からも聞いたことがないとのことである。
大丹波から伝授されたごく初期の頃は分からないが、相当古くから現在と同じ紺と茶のツートンカラーであったのだろうと思われる。もちろん、生地については時代によって素材そのものが変化せざるを得ないが、色と柄についてはいつの時代も以前と同じものを特別に注文して使ってきたと思われる。
ただし、大丹波から伝授されたばかりの最初の色使いが現在と同じであったかどうかについては分からない。しかし、柄については唐草模様を必ず用いていた(下衣あるいは上下共)であろうことは、現在の3カ所の獅子舞衣裳の共通性から考えても間違いないと考える。
(2)水引幕について
獅子頭の前に垂らしている水引幕については、大丹波は紺地に牡丹の花を描いたものだが、上成木高水山は紺地に鶴丸紋を白く抜いたものであり、下名栗は紺地に鶴丸紋を赤く抜いたものである。
このことから考えると、高水山の水引幕は名栗に伝えたときにはすでに現在と同じ鶴丸紋であり、変化していないと考えるべきである。水引幕も衣裳と同様消耗品であるが、同じ図柄を特注して使ってきたと考えられる。
ささら摺りの花笠の水引幕についても、その紋(突起のある丸の中に桔梗)が衣裳の振り袖についている紋とも共通し、これもまたずっと以前から変わっていないものだろうと推測する。また、この紋章の意味するところは現在では分からなくなってしまったが、本来は何らかの意味を持っていたのだと思われる。
(3)タスキについて
太刀遣いがするタスキについては、保存会の方たちも本質的なものととらえてはいないようで、自分の知っている範囲でも3回くらいは変化しています。 赤色のたすき→ 白色のたすき→ 紫色のたすき
本年(平成16年)は麓の常福院での揃い(練習仕上げの公開リハーサル)を25年ぶりぐらいに見学することが出来ました。職場の忙しさから故郷の祭礼を見ることがなかなか出来なかったのですが、いくつかのことに改めて気がつきました。
大丹波から獅子舞を習ったときのようすを、當村獅子舞縁起書という現地に伝わる古文書からうかがい知ることができます。これを見ると、明和5年に村の惣代(総代)二人が鎮守祭礼のための獅子の伝授を大丹波村へお願いしに行ったところ、大丹波側も相談がまとまり、明和五年の六月と七月に瀧ノ上の大照院に師匠の人たちが2回に分けて入来し、当地の21名の者が獅子舞の伝習を受けたことが分かります。また、習った演目は御幣、三拍子、妻獅子、花見、さを、白刃の六流と書かれており、これは現在行われている演目とまったく同一であることも分かります。(呼び方は少し違うものもありますが、ここで言う「妻獅子」は「女獅子隠し」、「さを」は「竿懸り」、「花見」は「花懸り」を指していることは間違いがないはずです。そして、これらの6演目は、現在の大丹波、高水山、下名栗のいずれの場所でも現行で行っている演目です。ただし、このWebで書いてきたように、芸態についてはそれぞれの地で少しずつ違っています。)
文書中に出てくる大指、極指(きわざす)、高土戸、井戸沢、瀧之上、休場、入平、常磐(ときわ)、等は地名であり、これらは現在も使われています。また何人かの人の名前については、どこの家の先祖であるかある程度推定できます。(私が小さかった頃には、ここに出てくる名の一字が入った名前を持つ古老も数名見受けられ、近年までは家によって名前の一部は受け継がれてきたという気がします。)
なお、大照院というところは、成木街道と旧小沢峠がぶつかるところに位置し、私たちが子どもの頃は地域の集会所であり子どもたちの遊び場でもありました。
「當村獅子舞縁起書」
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明和五戊子年為鎮守祭礼村中相談仕獅子取立度相催惣代二人大丹波村江罷越相願申候所
大丹波も相談相定まり六月廾七日大丹波村獅子師匠等四人入來瀧之上於大照院習始申候 |
當村本願
大指 淺見九郎右衛門 極指 加藤彦兵衛 世話人 中嶋重郎右衛門 瀧嶋九郎兵衛 阿部助右衛門 同 善六 濱名孫右衛門 高土戸 佐平次 井戸沢 与惣右衛門 きわさす 八郎右衛門 彦右衛門 甚兵衛 与五右衛門 庄左衛門 右世話人藝古申 於仲間喧嘩口論無之様ニ諸世話可致筈相定置仲間法度之ヶ條書等 別ニ證文有之 師 匠 喜兵衛 獅子 清之丞 笛 五郎左衛門 歌 太右衛門 佐ゝら 右四人 廾七日入來 榎戸弥平次 笛 孫市 藤市 助右衛門 甚助 伊三郎 右六人者七月入來 當村弟子覚 獅子 淺見九郎右衛門 井戸沢 源七 極指 加藤喜右衛門 幸助 小山重兵衛 笛 極指 加藤彦兵衛 同苗多郎右衛門 休場 濱名孫右衛門 瀧之上 同文左衛門 常磐 瀧嶋市右衛門 入平 仁左衛門 さゝら 井上孫市 青木大次郎 中嶋金五郎 瀧嶋牛太郎 加藤万之助 同 牛之助 同 与七 歌 中嶋惣左衛門 阿部助右衛門 久右衛門 右當村直習弟子廾一人 御 幣 三拍子 妻獅子 花 見 さ を 白 刃 右六流委細傳授 無残所藝古秘術盡習置申候 依之毎年四月八日高水内祭礼之舞之申候筈御座候 以上 明和五年戊子年七月十五日 右此一書者永傳子孫當村之獅子之習人等名不妄様ニ聊惣筆記置申者也 安永四年 乙未年七月廾日 瀧嶋九郎兵衛 廣保書 |
文中に出てくる「仲間法度之事」は、次に示す別の古文書です。これを見ると当時の伝習中の約束事をうかがい知ることができます。
「仲間法度之事」
一 藝古中喧嘩口論者勿論仲間相談違背仕間鋪事
一 博奕諸勝負一切間敷事
一 世話人藝古者無用之節者不参切間敷事
一 師匠之教訓相背間敷事
一 晩々藝古終脇泊り不致宿へ罷帰可申事
一 藝古中酒文遊興堅停止之事
右之條々世話人并仲間中急度相守違背仕間鋪事候
万一於仲間相背候者有之候ハハ世話人相改急度停止可仕候
為藝古中法度仍而如件
明和五年子ノ七月
同家に伝わる古文書のうち「一 札」を次に示します。
「一 札」
一 當所鎮守神事祭礼之ため 御獅子舞稽古支度貴殿御方江
御指南御頼申入 猶亦此度以思召御傳授秘書御譲り被成下置奉存候
右巻物之儀猥りニ他所江見世為写取候儀堅堅不仕
譬仲間之内ニ而致懇望候共 稽古未熟之者江ハ譲渡仕間鋪候
為後日請取證札如件
天保十三壬寅年八月 大沢入極指 加藤喜左衛門 (印)
倅 久米之助
同所瀧之上 瀧嶋金右衛門殿
上記の文面とほぼ同様な「儀定一札之事」を次に示します。
「儀定一札之事」
一 當所鎮守神事祭礼之ため 御獅子舞稽古支度貴殿御方江
御指南御頼申入候 猶亦此度以思召を御傳授秘書御譲り被成下置奉存候
右巻物之大切ニ猥りニ他所江見世為写取候儀堅仕間敷候
譬仲間之内ニ而致懇望候共 稽古未熟之者江者譲り渡申間敷候
為後日請取證札如件
嘉永七年寅歳四月吉日 きわざす村 濱名 松蔵
瀧の上 瀧嶋八郎左衛門殿
舞いの型(狂い方)の変化
高水山の獅子舞に限らず、どこの獅子舞(芸能)であっても、長い間に少しずつ変化して行くことは疑いのない事実であろう。しかし、その変化の様子は私たちにはなかなか認識できない。それは、数百年にもおよぶ獅子舞(伝統芸能)の歴史にくらべ、観察者たる個人の生きている時間が圧倒的に短いからである。100年前、200年前に現在のような映像記録手段があれば話は別であるが、江戸時代や明治時代にそのようなものはありようもなく、現在となっては昔の獅子舞がどのようなものであったかを正確に知ることは不可能に近い。
とはいうものの、昔の狂い方(獅子の舞い方)と今の狂い方に極端に差があるかどうかはある程度推測ができる。結論を言うと、「狂い方はここ百年程度では極端には変わっていないだろう」と感じている。
私は狂い方の変化がどの程度あったか以前から興味があり、2004年の4月には高水山の祭礼に訪れた親戚の高齢者に、「高水山の獅子舞の狂い方(舞いの型)は、昔と変わってきているのか」と聞いたことがあった。このとき、親戚の方は、「自分が現役でやっていた頃と変わっていない」と直答したのを覚えている。この方は、50年ほど前に獅子を狂っていた(獅子舞の役者であった)が、その後他地区に転居し、高水山の獅子舞を常時見ているわけではない方であった。2010年4月の揃い(祭礼前日の公開リハーサル)の時には、現地の高齢の指導者(師匠)に同様なことを聞いてみた。この時も、「自分が若い頃とくらべて狂い方(舞い方)は変化していない」と話していた。「当然、役者(獅子を狂う人)によって身体的・運動能力的な個性や特徴があるので、同じに狂えるわけではないが、自分が若い頃に習った頃とくらべ、舞いの方は変化していない」と話されていた。「違いがあるとすれば昔の方がもっと腰が低かったように感じている」とのことであった。何でも、「昔の方が練習がずっと厳しく、腰を落として狂えと常に指導されており、痛くてトイレでもしゃがめないほどであった」とのことである。
これらのことから推測すると、「狂い方(舞いの型)」の変化は50年程度では分からないレベルと言えるであろう。さらには100年位のレベルでも極端には変わらないように思う。個人的に想像するには、獅子舞の型が一番大きく変動したのは高水山の獅子舞の型が完成するまでの伝授初期にあったように思われる。
外的条件による変化
舞いの変化は比較的少ないように思えるが、それよりも外的条件の変化によって獅子舞は大きく変わらざるを得ないように思われる。近年では、過疎化や少子化が本来の獅子舞のあり方に大きな影響を与えている。獅子舞が披露される庭場の違いによっても獅子舞は大きく変わる。上記(2010/04/18 追記参照)のように、揃いの時の「白刃(太刀懸)」では、女獅子と花笠の立ち位置が本来と違っている。本来は、庭場の中央に花笠に囲まれて女獅子が位置し、その両サイドで雄獅子と太刀遣いが演ずるものであるが、麓の常福院では植栽と庭石の関係で、女獅子と花笠は安全な位置に一列になって並んでいる。
このように、時代や環境の変化にともなう外的条件の変化によって、獅子の演じ方は変わらざるを得ないように思われる。