東京の三匹獅子舞分布図 

東京の三匹獅子舞分布図

 (2005/02/10初出)
東京の三匹獅子舞の分布を地図中に示したものです。1〜86の数字は【東京の三匹獅子舞一覧】に対応しています。なお、現在上演が確認されていないところは水色の数字で示しています。

   東京の三匹獅子舞分布図

東京の三匹獅子舞分布についての一考察

(2005/02/16初出)
 上に示す三匹獅子舞の分布図を作成してみて気がついたことは、この郷土芸能が伝承されていない地図上の空白域があるということである。これは何を意味するのであろうか。推測の域を出ないがこのことについて考えてみたい。

東京における三匹獅子舞の空白域

 東京で三匹獅子舞が伝承されていないところは、次の2つの地域であると思える。
一つは千代田区や港区、中央区等をはじめとした都心の中央部をしめる各区である。周辺部の中野区、板橋区、足立区、葛飾区、大田区等に三匹獅子舞が伝承されているのと対照的である。
もう一つは小平市、小金井市、三鷹市、武蔵野市あたりの多摩東部から練馬区、杉並区、世田谷区あたりにかけての地域である。
 これはどのようなことを意味するのであろうか。文化的な要因や社会的な要因等が考えられるが、このことを現在も三匹獅子舞が伝承されている地域との比較から考察してみたい。

三匹獅子舞が伝承されている地に共通すること

 現在まで三匹獅子舞を伝承してきている地はどのような条件を備えた地であるか考えてみたい。
私の見た範囲では、次のような地域で三匹獅子舞が行われているように思われる。 他にもあるかも知れないが、とりあえず上記のようなことが気がついたことである。

 ここで、東京の三匹獅子舞の空白地を上記の事柄と照らし合わせてみたい。
 まず、東京の中心地つまり江戸時代にあっても江戸の中心地であったところについて考えてみると、上記のほとんどの事柄が成り立たないことが分かる。地域共同体が成り立っていたかどうかは何とも言えないが、人の数が多くその動きも流動的であったように推測する。江戸という大都市であったので、プロの芸能者も多くそれ以外の面でもいろいろな楽しみも多かったであろう。神社等の祭礼としては山車を曳いたり御神輿を担ぐような祭りの方が人口の面からも行われやすかったと思われる。
 三匹獅子舞が成立する条件をすべて満たすのは近年までの農村や山村であろう。したがって、三匹獅子舞は農山村の芸能だったと言えるかも知れない。大都市江戸では人々の生活のしかたや文化が農山村と異なるため三匹獅子舞が行われなかったものと考えられる。
一方、これらの地をドーナツ状に取り巻く周辺部の区は、今と違って当時は農村地帯であったのだろう。23区内では、三匹獅子舞が周辺部にドーナツ状に伝えられているのはこのことと関係がありそうである。

 もう一つの空白域である多摩東部の小金井市、武蔵野市、三鷹市や杉並区あたりはどうであろうか。この地域は、近年その都心までの立地条件の良さから非常に発展した都市であるが、江戸時代においては今とかなり違う状況にあったことが推測できる。近年までは当然農村地帯であったと考えられるが、その集落としての村の成立は多摩西部や南部よりも大幅に遅れたのではないだろうか。この地域の人口は、江戸時代中期頃まではかなり少なかった可能性がある。
 古くからの読み人知らずの歌に「武蔵野は月の入るべき山もなし 草よりいでて草にこそ入れり(※2)」というものがあるそうだが、江戸時代中頃まで武蔵野の状況は似たようなものだった可能性もある。つまり、関東ローム層が厚く堆積した武蔵野台地は、長い間人があまり住まない草原が広がっていたのかも知れない。水利がとても悪く(※3)武蔵野台地が開墾されていった(※4)のは玉川上水が引かれてからであると聞いたことがある。実際、この地域を通る中央線の線路が直線的にまっすぐ西に向かって敷設してある状況は、明治時代でもそのような工事が可能だった証拠であろう。
 江戸時代中期以降になって人口が増えだし、地域共同体が少しづつ出来上がっていったものなら三匹獅子舞のブーム(※5)には間に合わず、その他の郷土芸能も成立しにくかったのではないだろうか。

三匹獅子舞の分布状況をもっと深く考察するには、より広範な分布状況を調べる必要がある。神奈川県北部にもいくつかの獅子舞があるが、これは恐らく東京南部の獅子舞に連なるものであろう。また、山梨県の獅子舞も東京西部の獅子舞と何らかの伝授関係があると聞いたことがある。
 ※以上は個人的な推測であり、まだ十分な検証はしておりません。


(※1)例えば、高水山の獅子舞で言えば、明和5年(1768年)の當村獅子舞縁起書という古文書に出てくる人たちの子孫がそのまま現在でも伝承者になっていることが多い。数百年も前から住み続けている人たちが多いことが分かる。
(※2)この歌によく似たものとして、「武蔵野は月の入るべき峯もなし、尾花が末にかかる白雲」(続古今和歌集 大納言源通方)という歌があることを知った。これは高水山の獅子舞歌の「武蔵野に月の入るべき山もなし 尾花隠れに曳けや横雲」という歌にそっくりである。続古今和歌集のこの歌が本歌と言って間違いないであろう。
(※3)遥か昔の人が、住むところを決める場合には水が重要であったであろう。水がなければ人も生物も生きられない。飲料に適したきれいな水があり、生きるための術(食料の確保等)が確立できたところに、最初に人が住みついたのでり、近代のように東京に近ければ近いほど人が集まるという状況とは違ったであろう。江戸時代中期頃までの人口の分布は、今の東京の人口分布とはかなり異なるであろう。
(※4)武蔵野台地を開墾した人たちの名前は各種の資料に記載されている。大部分は江戸時代になってからであるようである。青梅市成木からも青梅街道(成木街道)沿いの武蔵野台地を開墾した人が知られている。小平市野中新田の中島姓の方々は私の遠い親戚に当たります。
小金井市の須崎姓の方々も大丹波にルーツがあると聞きました。
(※5)三匹獅子舞がかなり短期間に東国に広まったのは、恐らく三匹獅子舞の大ブームが江戸時代にあったからだと推測している。山崎角太夫という日本獅子舞之由来に出てくる人物も、この獅子舞ブームと関係していそうである。


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